わからないから祈ることにした
つまらん、キレるぞ
このイライラの鬱憤を晴らしたいがために文を書く。
まさに理不尽である。
人間関係も社会も
僕はただ平和に過ごしたい一心で行動をしているのにうまく噛み合わない。
結局はどうでもいいことであると気づくときには何か大切なものを失ってしまったかのような喪失感に襲われる。
何かに怒ったり悲しんだりすることは無為であると世間では言うようだが、僕は怒りたい。
自制を大切にすることは重々承知であり、人の多様を考慮するならばエゴを押し付けるのは不適切だ。
だから、誰に届くかもわからない文章を綴っている。
承認されたい、許されたい、楽をしたい、こんなことは周知の事実であり、覆しようのない事象であると僕は認識している。
ただ、これを人に押し付けるのは間違いだろう。確かに「相談」なら大丈夫だ、しかし所構わず厄介をするのは話が違う。馴れ馴れしい触るな、と言いたくなるような面倒さだ。
わからない、わかる
平和に生きたいのも僕のエゴである。だから人に押し付けることはできない。そもそも結論のレイヤーも思考の基準も多様であるがゆえ、評価を行う人間の資格は僕にはないはず。
だから一旦ブチ壊そう
僕は人間として人間らしく人と接したい。
評価はしない、そこには共感と譲歩による信頼が他者をつなぐ。
それも正しいのかわからない。
しらん、まかせる
どれだけ頭を捻ってもわからない。
感性に任せるスタイルになろう。
いつか自分が何か解決に近づく、だから今は学び続けよう、わからないまま。
確かにこの衝動はあって、今は説明できなくても僕は信じる。
認知する何かを信じるんじゃなくて、感じない「何か」を信じようよ思う。
とりま、いのる
僕の思う世の中は信仰に対して些か狂気を見るかのように振る舞っている。
きっと祈るとは盲目であるのと同義であると考えているのだろう。
祈るとは、現実を受け入れるものだと僕は思う。
祈らない人間ほど盲目であると僕は感じている。
だから見えないところで、人は信じずにはいられず科学や噂を信頼し信仰しているように見える。
当たり前だが選ぶのは自分次第だ。
そして僕は、神や自然を信仰するのではなく、僕自身の中にある「何か」を信じて進もうと思う。
その過程に何があってもいのり続けようと思った。