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土地の恵みを引き継げるか

ご近所さんからの頂き物が多すぎて、どうお返ししたらいいか悩んでいる。いろいろとあるけれど、一昨日は友人を呼んで、もらったイノシシ肉でぼたん鍋をやった。富山産のホタルイカをスーパーで購入し、その日の釣行でついでに採ったフキノトウを一緒に天ぷら。わたしが引っ越してきた飛騨市神岡は、富山との境にあるため、魚介が新鮮でうれしい。渓流で釣ったヤマメやイワナを塩焼きにすれば、あっという間に食卓が料亭風になった。

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いろいろ並んだテーブルは、土地そのものになった。地元の川で釣った魚、近くの山で仕留められたイノシシ、富山湾で上がったホタルイカなどなど・・・。そのダイバーシティの間に関係性を見出すこともできて、このフキノトウはイノシシが食ったかもしれないとか、イワナを育む清流が富山湾まで流れているとか、そういうことを考えだすと、ただでさえ美味しい飯がより一層味わい深くなる。ぼくはそういう食事が好きだ。

それは、自分を土地に定位させることによる安心感や喜びがある。さらに、その安心感とは何かといえば、自分という存在の影響がある程度分かるということでもある。釣り人が川を大切にするのは、そういうことだ。自分と川との関係性において、彼らは川のゴミを拾うのだろう。逆にいえば、例えば、アボカドはうまいけれど、それを消費することで一体どの土地とつながり、その土地で何が起こっているのか、あるいはアボカドの消費は、生産者にとって何を意味するのか、推し量ることすらできない。そこには、生産者と消費者という確かな関係性が存在しているにもかかわらず、その果てしない距離のおかげで、その関係が提示する意味を汲み取れない。その材料がない。それでもアボカドはうまいから、適宜食べるわけだが、何処にいたってそうした消費対象が多すぎるからこそ、ここでの生活の中で、土地と繋がるような食事にありつけたときは、喜びが高まってしまう。

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昨日の山で採ってきたフキノトウを、ふきみそにして冷凍庫にでも入れておこうかと思う。これは単なる食料の貯蔵というよりは、春の山を保存しておいて、思い出したいときに食べようという魂胆だ。山のめぐみは貴重だ。

飛騨市の発表によると、神岡町の人口は年々、100から200人単位の規模で縮小している。今年はついに8000人を下回った。単純計算すれば、20年後には5000人をわってしまうだろう。土地のものをお裾分けしてくださる人たちは、ほとんどの場合年配者だ。もしかすると、年配者しか土地のものをどう入手すれば良いかわからないのかもしれない。「ここは土地のものが味わえて幸せだな〜」なんてのほほんとしているうちに、それを獲得するノウハウは失われてしまうかもしれない。じーちゃん、ばーちゃんからいろいろ教わっておこう。

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