見出し画像

人の手を加えるということ

昨日は石をたくさん運んだ。近所の釣り名人と一緒に。山から川へ。どうしてかというと、地元の土建屋が工事した河川の川底が砂地になってしまい、イワナやヤマメといったもともといた魚たちが、別の場所へと立ち去ってしまったからだった。釣り名人は、けっこう前から一人で石をジムニーに載せて運んできたらしい。本人曰く、50往復以上しているらしい。ときには重機を使って、石と岩の中間くらいの大きさのものも、投下した。

50往復したとあって、川の中の大小の石は、平瀬やちょっとした落ち込みができていた。これなら魚も住み着きそうだ。一般に、イワナやヤマメは砂地を嫌う。特に水深が浅ければ。なぜなら、猛禽類をはじめとした天敵に自ら身を晒すことになるからだ。川底に、一つとして同じ色や形を持たない大小の石ころがあったなら、それはカモフラージュとして機能するため彼らも比較的安心して泳ぎ回る。

私は、できるだけ大きい石を選んで運んだ。70手前の釣り名人にはちょっと辛そうなものを中心に。「おまえすごいな、なんかスポーツでもやってたのか」と、釣り名人は驚いていた。

土建屋がどこまで川の生き物について熟知しているかは知らないが、でかいドブみたいになった川は、地方に行けばいくらでも見つかる。もちろん環境アセスメントといった調査もやるんだろうが、それも個人的には信用できない。地方の環境コンサルタントで働いていた人物によると、例えば何か工事をする際に、その場所に希少生物がいれば、それを他の場所に移すこともあるそうだ。つまり、立ち退いてもらうのだ。あまりいい方法とは思えない(前提として、全ての建設会社や環境コンサルがそうだと言っているわけではない。あくまで、体験者から聞いた話だ)。

3往復ばかりした。釣り名人が「俺がやる2週間分だ」と喜んでいたので良かった。こうして、人間が手を加えた場所には、人間が手を加え続けて行かなければならないな、と実感した。現場は、一面だけを護岸するような形で工事されていた。おそらく、放っておけば川が畑や人家のエリアを侵食するおそれがあったのだろう。

人間の生活を守るという意味での自然との付き合い方は、2パターンあるなと思った。一つは、自然の変化に人間が順応していくこと。たとえば今後、異常気象が続いて、夏は酷暑で普通、みたいな状況になったら、日本でもシエスタのように昼間たっぷり休む習慣が生まれるかもしれない。災害マップを作って、有事の際に迅速に避難できるようにする、といった取り組みも、人間側の順応といえるかもしれない。もう一方は、みなさんお察しのように、人間の手を自然に対して入れていくということだ。見上げるほど高い防波壁を作ったり、治水のためにダムを作ったりする活動がこれにあたる。これは結構、長丁場になる。ちゃんとやろうと思えば思うほど。一旦自然に手を入れてしまえば、アフターフォローが必要になる。過疎に伴う里山の荒廃が指摘されたりするのは、そのためだ。もちろん、自然なんてどうでもいいなら話は別だ。

石を運んだあと、釣り名人が巨大な砂防壁が作られている現場に連れて行ってくれた。想像以上にでかい。素人目からすると、ここにどうしてここまで大きい壁を作らなければならないのか、理解できなかった。この支流は、民家が集合する地域を通るわけでもない。こうなってくると、心情的には、土建屋を儲けさせるために、無駄に予算を投じているとしか思えなくなってくる。

完成すれば、絶対にイワナは遡上できない。ここから上流のイワナは、しばらく残るだろうが、釣り人に釣られたりしながら、徐々に血を濃くして最後には絶えてしまうだろう。釣り名人は、他の場所から魚を移してくることで、、血が濃くなることを防げると話した。もちろん、それは望ましいことではないとも語った。一度手を加えたら、その自然は元に戻らない。もちろん、真に手が加えられていない野生なんて、ほとんど存在しないのだけれど、ここに引っ越してきてから、こうした公共事業がより身近な問題として感じられるようになったと思った一日だった。

もしよかったら、シェアもお願いします!