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ボートモカシン

 同じ高校の美術部に、不思議な絵を描く部員が居る。と言っても、その不思議な絵を見たのは一度だけなのだけれど。
 それは学校祭でのもの。毎年作品展示が行われて、それがほぼ唯一、学校内で美術部にスポットライトがあてられる機会。と言っても、別に強制的にその作品を見なさい、というわけでもないので、見る人は見るし、見ない人は気にも留めていない。
 彼は私と同じ一年。ともかく、そんな彼の絵が、私の中で話題になった。
 青い絵。海の中に潜ったみたいな、海中の波の音が、鼓膜を揺するような静かな絵だった。
 真ん中にクジラが泳いでいる。青い空間の中を白く切り取ったみたいな描き方。不思議とその絵に心が惹かれた。
 そういえば、彼はあの絵をどんなふうに描いていたんだろう。冷静になって思い返してみるけれど、思い出せない。
 というか、その絵を描いているところを、部室で"見たことがない"。
 
 ***

 私は休日、よく画材屋さんに出掛ける。絵を描くこと自体は好きだし、楽しいけれど、休日にもそういう所に出掛けるのは純粋に、他に行くところが無いからだ。今日も、いつもよく来るお店にやってきた。
 学校祭も二学期の中間テストも終わったため、心は幾分解放感に包まれている。進路の事とかを考えると、テストの結果はもう少し冷静に受け止めたりするべきなのかも、と思うけれど。
 まあ、終わったものはどうしようもないし、今は休日を楽しもう。
 画材というのは眺めているだけでも楽しい。透明な瓶の中に入っている、透き通ったインク。棚に並べられた、様々な繊維で作られている紙やスケッチブックに、チューブタイプの油彩絵具。
 店内には、様々な色のグラデーションが並んでいる。眺めているだけで幸福になれる。これぞ眼福というやつだ。
 そうやって店内をぐるぐるしていると、どこかで見た身長と、しぐさをしている人物を見つけた。
 本人には気づかれないであろう距離まで近づいて、顔を確かめる。彼だった。青い絵を描いていたあの。
「あれ? めずらしい」私は声を上げる。
 知り合いでなかったら気まずい、という理由でそっと接近したけれど見知った人間だったので、そこから先に躊躇は無い。
「あ、す」
 街中で知り合いに会ったときの、最小限の返しが返ってきた。普段からあまり話さない人だとは思っているけれど、プライベートもあまりしゃべらなさそうだ。
「一人で来たの?」
「うん、そう」
「新しい画材探し?」
「そんなところかな」
「……」
「……」
 想像以上に話を広げるのが難しい。私も案外コミュニケーションが下手なのかもしれない。普段、話しやすい知り合いとだけ付き合っているから気付かないだけで。
 そう思い、ふと視線を下にさげる。何の気なしに彼の足元を見る。
 何だ、何かいい感じの靴を履いてるな。と思った。
「その靴、いいね。何て名前の靴?」
 彼は私の視線を追いかけるように下を向き、続けて言った。
「……モカシンシューズっていうらしい」
 モカシンシューズ。彼曰く、靴の甲の部分がUの字型に縫われているのをモカシン縫いというらしい。そういう作りの靴をモカシンシューズというのだそう。特に彼が今履いているのは、ボートモカシンというタイプのものだそうだ。履き口の部分を紐がぐるっと一周している。
「へえ、いいね」
「……ありがとう」
 駄目だ、私もうまく喋れないや。そんなことを考えていると、彼が話し出した。
「もともとじいちゃんが履いてたやつだったんだ。それを貰って、今は僕が使ってる」
「そうなんだ」
 しばらく沈黙が続く。
 そういえば、と、今度は私が話題を振る。もともと聞きたかったこと。
「学校祭に出してた絵って、どうやって描いてたの? あれ描いてるところ、見たこと無かったから」
 考え込むように顎に手を添える。目を細め、一点を見つめながら、彼はどう答えるべきかと思案している。
「うーん、秘密」一言。
 そのスッパリとした物言いに、私は思わず吹き出してしまう。ごめんごめん、と言いながら、そうか、秘密か。と呟く。
 少し残念に思いながらも、まあ、仕方ないかと諦める。代わりに、という風に彼は話し出した。
「あの絵は、僕が好きな芸術家の絵を真似て描いてるんだよ。とても大きい、クジラの絵」
「そうなんだ」
「僕はそこまで大きい絵は描けないけど、憧れと尊敬は人一倍ある」
 その目は普段、学校で見せないくらい輝いていて、なんだか別人と話しているみたいに感じた。
「あとは、海の生き物を描くのが純粋に好きなんだよね」
「確かに、海の絵をよく描いてる気がする」
 彼は、何かの公募に作品を出すとき以外は、たいてい海の生き物を描いている。ただ、青い絵の具一色で描くことはほとんど無い。
 彼は、でしょ? と言いながら上を見上げ、少し考えてからまた言葉を繋いだ。
「もしかしたら、このボートモカシンも、海つながりで心がワクワクするから履いてるのかも」
「心がワクワク? どうして?」
「ほら、ボートって小さくて、海に出ようとするときはちょっと頼りなく思うかもしれないけど、冒険の始まり、みたいな感じあるじゃん」
 その言葉を聞いて、私の頭の中にはなぜか、彼がボートモカシンを履いたまま、海上に踏み出すイメージが浮かんできた。
 本来のボートから連想することでは無いだろう。だけど、何となく彼が言っていることが分かるようなイメージだった。ボートモカシンは、冒険の始まりを一緒に迎えるのには、とてもいい靴なのかもしれない。少なくとも彼にとっては、最高の靴なのだ。
「学校にはもったいなくて履いていけないけど、この靴は大事なものなんだ。落ち込んでる時でも、足元を見ればいつもここにある。勇気をくれるんだよ」
「そうなんだ」
 何となくだけれど、話した彼の表情から、その内側にある感情や性格まで、透けて見えたような気がした。

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