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アメリカーノ

「ここのコーヒーって、夜空を使って作ってるんですか?」
 喫茶店。男はメニューを眺めながら、呼吸のついでみたいな言葉の緩急で話した。
「はい、そうですね。もちろん、普通のコーヒーも置いていますが」
 店主はいつもの落ち着いた声色で説明する。
「僕、夜が苦手なんですよね。怖くて」
「怖い、ですか」
 男はこくりと頷き、続ける。
「なんだか、自分以外誰も居ない世界に放り出されたみたいな感覚になるというか。心細いんですかね? 自分でもよく分からないんですけど」
「なるほど」
「だから、夜はなるべく電気を付けたまま眠りたいんです。夜の濃度を薄めるというか。せめて自分がいる空間だけでも」
 男はなんとか伝わるようにと話しているけれど、すこし要領を得ない。それでも店主は変わらず、その話に耳を傾けている。
「前にここにお邪魔したとき、ちょっと、ここのコーヒーが濃くて、しんどくなっちゃったことがあって」
「そうだったんですか。そうとは知らず、申し訳ありません」
「いえ、苦情を入れたいわけではなくてですね……。もし、可能であれば、薄めることってできますか?」
「薄める。コーヒーをですか?」
「はい」男は実に気まずそうに言う。
 それに対して店主が返事をしようとした時、男は咄嗟に手を上げて遮った。彼にとって、店主からの返答を待つ時間すらも、申し訳なさを増幅させるものになったのだろう。
「いや、失礼なのは重々承知しているんですが……」断られることを前提で話を進めている。そこに店主がさらりと言う。
「大丈夫ですよ」
「ですよね……やっぱりむず……。え?」
 コントをしているかのような絶妙な沈黙があって、そののち、店主が会話を繋いだ。
「薄めること、可能ですよ。せっかくまた来てくださったんですし、今日もゆっくりしていってください」
 男は声にならない声で、ほんとですか、と言った。

 ***

「アメリカーノ、ですか」
 男は、コーヒーから立ちのぼる湯気の向こうから店主を見ながら言った。
「はい、エスプレッソをお湯で割ったもののことを言います。普段お出ししている夜空のコーヒーは、特段、濃くしているわけではありませんが、そういうものも普通に存在するので、問題ありませんよ」
「へえ……」
 男の心は落ち着いていた。コーヒーは彼にとってちょうどいい濃度になっていたし、店内の明るさも、店主が丁度いい塩梅に調節した。照明に関しては、他に客もいなかったため、誰に断りを入れることもなく明るさを調節することができた。
 男は一口コーヒーを啜ってから、リラックスした呼吸とともに呟く。
「……これなら、今回はよりよく眠れそうです」
「それはよかった。店内の明るさは日によって変えられないかもしれませんが、もしよければまたいらしてください」
「はい、ありがとうございます」男は、に、と笑った。

 その日の喫茶店は、いつにも増して空気が軽やかだった。

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