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思い出キャニスター

 喫茶店のカウベルが鳴り響いて、一人の女性が入ってきた。
「いらっしゃいませ。おや、ずいぶんたくさんの荷物をお持ちですね」
 彼女はそう言われて、そうなんですよ、といったリアクションを店主に向ける。声は出さないまま、少し茶目っ気を持たせたような動き。
「これをどうにかしたくて……」
 そう言いながら手提げ袋から取り出したのは、四つのキャニスターだった。コーヒー豆を保管しておく容器。ガラス製のもので、中身がすっかり見える。
「ほう、これは?」
「昔の記憶をコーヒー豆と一緒に閉じ込めてあるんですけど……」
「むかしのきおく、ですか」
 店主はキャニスターの蓋を開ける。確かに、普通の豆とは違う。何やら豆の中に感情が籠っているような感じだ。
「なるほど」
「昔にした恋愛ごとに、瓶を分けて保存してあるんです。実ったものも実らなかったものも」
 彼女はため息をつく。こんな説明をしている自分すら嫌だというようなニュアンスが感じられる。
「なんで残したままにしちゃってるんだろうって、自分でも思うんです。他の子たちはそんな昔の事、忘れちゃえばいいのにって言うんですけど、それがどうしても出来なくて。出来ないから余計心に引っ掛かっちゃって」
 だから、と言って、彼女は続ける。
「これを全部、使っちゃえば、もしかしたら次に行けるのかなって思って」
「つまり、これらをコーヒーにするなどして、全て消費してしまいたい、と」
「はい」
 決意と心残りが入り混じった声で、彼女は呟いた。

 ***

「正直これでも、今まで忘れられなかった記憶なので、このまま置いておいてもいいのかもって悩んだりもしたんです。下手に触らずに、ガラス容器の外から眺めるだけにしておけば、別に実害はないし、って」
 店主がキャニスターの蓋を開けて、中の豆を取り出す様子を眺めながら、彼女は言う。
「それも確かにそうかもしれませんね。本当はもう少しとっておいた方がいいのでは?」
 店主の言葉に少し視線が揺れる。けれどすぐに持ち直す。
「いえ、大丈夫です。やっちゃってください」
「はい、わかりました。ちなみに、ペーパードリップするんですが、フィルターの目の粗さはどれぐらいがよろしいですか?」
 紙のフィルターを使ってコーヒーを抽出する方法。コーヒーを淹れる、と言われたら、比較的すぐに想像がつくやり方だろう。細い注ぎ口のポットから、これまた細いお湯を注ぐあれだ。
 フィルターは、目が粗いほどすぐに濾過され、さっぱりとした味になる。逆に細かい目のものにすると、ゆっくり濾過されるため、味が濃くなる。
「……あー。粗めでおねがいします」
 苦笑いしながら、彼女はもそもそと言う。
「はい、承知いたしました」

 ***

「まだ残ってますね」
「ええ、沢山ありましたからね。これから徐々に減らしていけば、大丈夫です。二週間以内に使い切れれば一番良かったんですが、この量だときびしいかもしれないですね」
「ですよね~……」
「はい、なので、またお時間があるときはいらして下さいね。とりあえずこれはうちで保管しておきますので」
「いいんですか?」
「ええ、毎回持ってくるのも大変でしょうし」
「それは助かります」

 コーヒーを完飲した女性は立ち上がる。
「それじゃあ、またお邪魔します」
「ええ、ぜひ」
 その足取りは、入店時に比べるとずいぶん軽やかなものになっていた。

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