尊い“あたりまえ”
“あたりまえ”ってなんだっけ。。。
いつもの様に朝起きて出社して。いつものスタッフで1日仕事して。いつも来てくれるあなたの髪の毛をデザインして。夜はいつものメンバーで飲み行って。いつもの様にベッドに入って目を閉じる。
意識せずとも訪れる時間や経験をあたりまえと言うのだろうが、だとするとそのあたりまえは人それぞれ違ってくる。あたりまえというそれは1つとして同じものはない。
僕にとってのあたりまえは、あなたにとってのあたりまえじゃないし。あなたのあたりまえは僕のあたりまえじゃないし。
そんな考えたら恐らくキリがないことをある日の営業後、その日のまとめをしながら考えていた。「今日来てくれた〇〇さん。いつも来てくれてるけど、いつも来てくれる事ってあたりまえじゃないよな。けど、〇〇さんからすると日々のルーティンの中で僕の所に来てくれる事はあたりまえなのかもしれない。」みたいな。
僕にとってのあたりまえ...
あなたにとってのあたりまえ...
人それぞれ違うあたりまえがある中で、間違いなく思うことが1つ。その時間や経験があたりまえになるまでには、あたりまえじゃない時間や経験があるということ。あたりまえは急に目の前にパッと現れるなんてことは絶対に有り得なくて。あたりまえじゃない時間や経験が積み重なって積み重なって、その上に出来上がった今日という日を“あたりまえ”と言うんじゃないのかなって思う。
色んな人の力や愛、偶然の出会いや出来事。そういったものの積み重ねの先であたりまえというのは成り立っている。
だとすると、あなたにとってのあたりまえとするその時間の中に思い浮かぶ人ってのはあなたにとって滅茶苦茶大切な人なんだと思う。あたりまえに会って話してるから気付きにくいけど。会っている回数とか連絡の頻度とかそういうのじゃない。あなたのあたりまえを形成するうえであなたの頭に思い浮かぶ全ての人はかけがえのない存在なはず。
そんなあなたにとって大切な人にはもれなく「ありがとう」と言うべき。言葉にも鮮度がある。お礼や褒め言葉はもちろん残酷にも悪口にも。思ったその瞬間に発せられる言葉にはとても気持ちが憑依している。良くも悪くも相手に響く。しかし思ってから時間の経った言葉には前者より気持ちが憑依していない。良くも悪くも相手に響かない。
思ったその瞬間に「ありがとう」。後でとか、次会った時でとか。それだとその「ありがとう」の鮮度は落ちてしまう。もしかしたらもう会えないかもしれない。次がないかも。
今ある“あたりまえ”は決して“あたりまえ”では無い。雑に扱えば目の前から無くなってしまう。
大切にしたい“あたりまえ”、失いたくない“あたりまえ”、、、それはきっとあなたにとって大切な人へ「ありがとう」と伝えるそれだけでいつまでもあなたのそばに寄り添ってくれる思う。形無いものだとしても。
“あたりまえ”は尊い。
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