漠然とした未来を生きる。
未来ってかなり漠然としている。
「いつかこうなりたい・・・」誰しもそういった夢や目標を持っているはず。しかしそこにいつ辿り着けるのか。いつ達成できるのか。そんなこと誰も明確にはわからない。だからこそ夢や目標というのかもしれないが。
夢に向かって歩んでいる日々。まるで濃霧の中にぼんやりと光る灯りに向かってなんとなく歩いている感覚。いつその灯りにたどり着くのか分からないし息苦しい。不安が身体に圧をかけてくる。
そんな漠然とした未来をどう生きるべきなのか。最近30歳を目前に自分に問いている。正解なんてあってないようなものだから結局は自分次第なんだが。誰かが生き方を教えてくれるわけもない。もし仮に「こう生きるのが正解なんだよ」と言ってくる人がいようもんなら、申し訳ないがその人がその人自身の今までの生き方を肯定するための押し付けにしか聞こえない。あなたの正解は僕の正解ではない。
なぜ人間って「こうしようと思うんだよね」というこちらの話に対して『けどさ、』としれっと否定してくるのだろうか。素直に『いいじゃん』と言えばいい。きっと僕も気づかないうちにそういう返しをしているかもしれない。恐らくそれって自分の生き方を肯定して正解にしたいという想いが会話に現れているんだと思う。
少し話が逸れたが、
夢や目標を持った次の日にそれが達成されることは無くて。(明日ラーメン食べたいとかなら達成できるが。。。)いつ達成できるか分からないからこそ、それに向かって生きるロマンが人生にはある。
漠然とした未来に夢や目標を達成する瞬間がくるのかはいつだって自分だけが知っているはず。「いつかは、、、」というその“いつか”は自分で決めることなのだから。別に誰も教えてくれない。未来は自分次第。
夢や目標を達成するために今自分は何をするべきなのか。どこにいるべきなのか。何を手放すべきなのか。それらと真剣に対峙して明日を生きる。そうすれば濃霧も日に日に晴れてくるんじゃないか。灯りも鮮明になってくる。息苦しさも和らぎ、不安という圧も弱くなるはず。
歓びの瞬間をすぐに迎えることはできないが、まずその1歩になる明日を迎えることはできる。焦らず欲張らず。自力を信じて地に足つけて明日を積み重ねた先に歓びの瞬間がある。夢に近づいている実感こそ明日を生きる醍醐味なんじゃないか。
後1ヶ月で30歳を迎える。漠然とした未来を生きているからこそ明日に迎えられるのではなく、明日を迎える生き方をしたい。