見出し画像

9月の終わり、近くのバーにて、あいがけカレーと彼女との出会い(未遂)

9月の終わりに近づいたある日、職場近くのいつものバーが昼間にカレーを出していると聞いて、僕はその店に足を運んだ。 北区の静かな路地にひっそりと佇むそのバーは、夜にはコメディな音楽とともに客があふれているが、昼間の時間はどこか静寂が漂っていた。 柔らかな陽射しがカウンターに差し込み、木のテーブルや椅子が静かに時を刻んだ。

「チキンとキーマのあいがけカレーをお願いします」と僕は注文し、席に着く。 店内には、ほのかにスパイスの香りが漂っていて、食欲をそそる。チキンとキーマが美しく並び、スプーンを手に取る前に、しばらくその彩りを楽しんだ。

一口食べると、スパイスがじわりと広がり、チキンの柔らかさとキーマの深い味わいが絶妙に絡み合う。 これはなかなかの逸品だ、と僕は心の中で呟いた。 

顔を上げると、カウンターの隅にふと一人の女性が座っていることに気づいた。彼女は長い黒髪を肩に流し、僕と同じようにカレーを食べていた。女性が昼間にバーのカウンターでカレー?と、ちょっとびっくりした。しかもお箸で。彼女は一口ずつ、丁寧にカレーを口に運んでいて、その姿が妙に印象的だった。

「話しかけてみようかな」と僕は思った。 でも、そのタイミングにも掴めない。彼女が何を考えているのか、その表情からはまったく読めなかった。話しかけることなく終わることなんて、日常ではよくあることだ。

カレーを食べ終え、会計を終えて店を出た。 外に出ると、秋の風が心地よく吹き抜けていた。 もう9月も終わりに近い。店を出たあと、僕はしばらく何も考えずに歩き続けた。 北区の細い路地を抜け、少し広い通りに出た頃、風がまた少し強くなった。 ビルの隙間を滑り来るその風は、どこか冷たさを含んでいて、秋が確かに近づいていることを僕に知らせてきた。

「あの女性、どこから来たんだろう。」とふと思った。 昼間のバーに一人で来て、カレーを静かに食べている姿がどうしても頭から離れない。香りに惹きつけられやってきたのか、案外この店の常連なのだろうか。

それでも、そんなことを考えるのは勝手だ、と僕は自分に言い聞かせる。 とりあえずのことは、出会ってすぐに忘れてしまう。今日のことも、帰り道の景色に吸い込まれて、きっとどこかに消えていくだろう

歩きながら、僕はポケットの中のスマートフォンを触った。 誰かにメッセージを送ろうか、と思ったが、結局やめた。 誰かと話すほどのことはない。 日常が静かに流れていく中で、時折こんな風に、一人でカレーを食べて、通りを歩く時間が僕にはちょうどいい。 考えることも、何か特別な感情を抱くこともなく、ただその場に身を置くような感覚。

信号が変わるのを待ちながら、僕は空を眺めた。雲は少なく、まだ夏の名残が残っているような澄んだ青空がそこにはあった。 空の向こうに、今日のことがやがて遠ざかっていく。あの女性のことも、カレーの味も、全部この空の下で薄くなっていく。

でも、少しだけ、あの店にまた行きたいと思った。 もしかしたら、またあの女性に会えるかもしれない。 いや、会えなくてもいい。 僕はただ、あの昼間の静けさと、カレーのスパイスの香りをもう一度味わいたいと思った。

信号が青に変わり、僕は静かに足を踏み出した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?