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民藝って道徳なの?

 どうも。先日、観光地でスジャータのソフトクリームを買って家人から呆れられました。

 「民藝 MINGEI -美は暮らしのなかにある(中之島美術館)」を見ました。作品点数は多すぎず、取り合わせ(コーディネート)展示が日本民藝館のようで、落ち着いて見ることができました。

 僕は無名のプロダクトデザイナーで、学生時代は柳宗悦氏のご子息である「柳宗理」氏の授業を受けたことがあります。柳宗理デザインの数々はどれも美しくて使いやすくて安価で、特に食器・キッチン用品は今でも「デザインの最適解」だと思っているほどのファンです。
 その柳宗理氏の源流を遡った理念としての「民藝運動」、興味が無いわけがなく、資料を漁り、駒場や倉敷の民藝館に足を運び、産地めぐりもしました。デザイン屋である自分にとっての「車検」のように、数年に一度は展覧会に行って価値観の再確認をします(この気持ちは「法事」にも近いかもしれない)。

暮らしに根ざした庶民の品物にこそ、健全で素朴で素直な美しさがある。

 良いですよね。多くの作り手と使い手が肯定された気分になる。他の観覧者も皆一様にほっこりしているようでした。

 しかし、僕は民藝の展覧会や評論を見ると、少しだけ「なんとも言えない息苦しさ」を感じることがあるんです。

 皆が穏やかでいる時に、わざと喚き散らしたり噛み付いたりするのは「爆笑問題の太田光さん」のようで苦手なのですが、太田さんにもそれなりの理屈があってそうするように、僕にも思うところがあるのです。

「民藝=絶対正義」になってやしないか?と。

 柳宗悦氏が民藝運動を提唱していた頃は、そのような考え方があまりに斬新だったせいか、さまざまな異論反論があったそうです(青山二郎、白洲正子、北大路魯山人 etc…)。貧しい出身から成り上がった魯山人に至っては、上流階級の柳が貧乏ごっこで庶民の雑器を褒めそやす姿が癇に障ったのか、悪役レスラーのように口を極めて罵り挑発しています(ベビーフェイス柳は無視したそうですが)。

 当時としては新鮮な「物の見方」を、長い年月をかけて「ひとつの価値観」にまでした柳氏の宗教家らしい熱意と慧眼。民衆に寄り添う価値観の提唱は、僕たち庶民を肯定してくれたようで耳触り良く、ポピュリズム政治のように支持を増やしてきたのかもしれません(その結果、誤解も多かったそうですが)。
 しかし、多くの思想や主義主張が、異論反論やカウンター的思想と常にぶつかり合うことで健全に在り続けているのに対し、今や民藝思想に異を唱える人はほとんどいません。一本どっこで立っているのです。

 「ものを見る物差しのひとつ」に過ぎなかったはずが今や道徳化していて、反論が封じられてしまっているような「正義の息苦しさ」を感じるのです。
皆が「正しいこと」にし過ぎたために、否定の余地も無くしてしまっている。
「理詰めでやり込められた時」に感じる、ぐうの音も出ない鬱屈にも似た感情です。

 それに、今時の民藝品って、ちょっと高いんですよ。民藝の性質の一つに「廉価性」ってのがあるんですけど。柳が光を当てたばっかりに、自分が定義づけたことをひとつ失っているんです。それってどうなん?と(魯山人が言ってました)。
 同じように、知る人ぞ知る「秘境」の多くは、その魅力が紹介されるや人が押し寄せ、ゴミを撒き散らし草花を踏みつけ、スジャータのソフトクリームが売られる陳腐な土地に成り下がっています。

 僕が民藝の展覧会をキュレーションするなら、手放しに賞賛するのではなく、当時の批判や異論反論、柳氏の抱える矛盾や仲間達との葛藤も併せて見せる展示にしたい(そんな展示に日本民藝館が作品を貸したりしないだろうけど)。たとえそれがプロレス的演出だとしても、多角的な視点がある方が風通しが良い。

 いっそ「民衆的工芸品」なんて、誰にも見出されず、ずっと細々と作られ続けて、安く買って使い捨てられ、人知れず朽ちるのが美しさだったのかもしれない。

 民藝とは、生活に根ざしていて、特別ぜいたくでもなく、安価で、量産されていて、健全で、伝統的で、シンプルなものではないでしょうか。そう、それはスジャータのソフトクリームです。

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