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九月一日

 その子を見つけ出すまでに時間はかからなかった。教室の隅で一際ひっそりと息を潜めて下を向いていた。弱い子はすぐに分かる。真っ白い顔をさらさらの髪がやわらかく隠している。やまもとさん。私は小さく声をかけた。ふでばこ、かわいいね。やまもとさんはゆっくりこっちを見ると、はにかんだように笑った。


 中学二年生の最初の一日。私たちはすぐに仲良くなった。住んでいる場所も近く、毎日一緒に帰ることになった。


 私たちは沢山のお喋りをした。人気のテレビドラマやアニメのこと、クラスメートや先生の悪口。一度万引きをしたことや、スカートの丈のこと。出会って三日目には、一緒に家出をする計画も立てた。くしは、持っていくか、と聞くと、それは要らない、とやまもとさんは言った。
 やまもとさんは勉強ができなかった。一度数学を教えてくれと頼まれたが、それは分数の足し算の問題だった。私は心からやさしい気持ちになった。分数の足し算を解くためには、まずは通分。やまもとさんのノートに散らばるへんなダンスみたいにもつれた数式を私は愛した。


 私たちは教室での時間を、できるだけひっそりと誰にも見つからないように過ごした。実際に私たちに興味を示す人なんていなかった。より目立たない存在でいるためには、ひとりよりもふたりでいる方がいい。私は本能でそのことを知っていた。好きじゃないなら関わらなければいい。そんなものは机上の空論で、人間は自分よりも弱い生き物をいっせいに攻撃してくる生き物だ。なぜそのことを皆知らないふりをするのだろう。誰かのプライドを引き裂いて、傷つく顔を見ると、自分が優位に立ったみたいで救われるんだ。かわいそうな生き物。私たちは体育祭も文化祭も修学旅行も透明な影みたいに寄り添って過ごした。


 私は特に体育教師には嫌われていた。勉強だけができて、暗くて笑わず、どのスポーツも軒並み皆の足をひっぱった。体育祭で踊るダンスがわたしだけおかしいと言われ、職員室でひとりで何度も踊らされた。そんなに背が高いのに、目立って困るわあ。教師たちが集まって笑った。


 その頃、テレビドラマの主題歌になったことをきっかけに流行した曲があり、私も擦り切れるほど聴いた。その曲はやまもとさんの好みではなかったが、私は、何度もやまもとさんに歌詞を細切れに復唱させて歌うことを強いた。やまもとさんは抵抗しなかった。


 三年生になっても私たちは同じクラスになった。そのことに心底ほっとしながら教室に入った。始業式の次の日の、最初の席替えの時だった。教室はやけにざわざわとして、男子たちが耳障りな歓声を上げていた。おお、なかやんが負けや。笑い声が起こった。やめてくれよ、なかやんと呼ばれた男子が顔を歪めた。男子たちがなかやんの机を無理やりに私の方に寄せてきた。バツゲームだぜ。どこからか声がした。私の隣の席に座ることがバツゲームだと、言っているんだ。
 私は反射的にやまもとさんの方を振り返った。やまもとさんはまっすぐにこちらを見ていた。長い髪の毛に隠れた顔がとても整っていることに私は気づいた。
 私は全身全霊の力を使って、無表情を保った。やまもとさんがこんなにきれいな顔をしていることに気づいているのは私だけだ。そう思うと心底冷たい気持ちになれた。


 三年生の夏休みの最後の日、一度だけやまもとさんが夜中に私の家を訪ねてきた。母子家庭でお母さんはいつも仕事をしていて、家には私しかいなかった。学校に行こうよとやまもとさんは言った。私はもちろん頷いた。ふたりで長い坂を上って学校へ向かう。田舎だから夜の道には人の気配がない。
夜中に家を抜け出すなんて、私には初めての経験だった。私は好きだった曲を心地よく口ずさんだ。くっきりと三日月が出ていた。
 やまもとさんは、本当はこんなにきれいな子で、勉強はできないけどどこか大らかなところがあって、性格もいい。なのに、なぜあんな風に教室にひとりでいたんだろう。やまもとさんと仲が良いことを知ると母は真っ赤な顔をして私を非難した。宗教の子と言った。仕事で疲れている母はどうでもいいことでよく私を叱った。勉強で褒められることだけが、私が母を喜ばせてあげられる唯一のことだった。


 学校へはすぐに着いたが、校門は閉められて、校庭には入れないようだった。がしゃん、がしゃん。私たちは一度ずつ錆ついた鉄柱の音を鳴らした。
今日、男の人と会ってホテルに行ったの。やまもとさんが歌うように言った。舞台女優のセリフみたいな語尾だった。観客がほしくて、私をここに連れてきたのが分かった。
 私はあんたと、一緒にいてあげてるのよ。怒りにまかせてわたしは言った。自分が震えていることが怖かった。
やまもとさんが私を振り返った。
 それから不思議そうにわたしを見つめて、やまもとさんはゆっくりと笑った。
 そのとおりだ。私は思った。
 今日で夏休みは終わる。

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