つばめ図書館


 駅前を通り抜けて線路沿いに少し歩いたところ、北高架下商店街の片隅につばめ図書館はある。レコード屋さんと手芸屋さんに挟まれて、古い木の枠の扉に、小さな看板が出ているから、すぐに分かる。


「つばめ図書館には鍵はかかっていません。」


 看板の下には、やはり小さな文字で、そんな注意書きが添えられている。
颯太は今年、小学校四年生になった。三歳の頃から通っているスイミングスクールの帰り道に、時々、お母さんとふたりでつばめ図書館に立ち寄ることがある。北高架下商店街の入り口にあるラーメン屋さんの前を通るとき、お母さんは必ず、
「ああ、いいにおい。たまらんわ。」と言う。


 つばめ図書館の扉を開けると、手前に少し小さな部屋と奥にそれより少しだけ大きな部屋があるのが目に入ってくる。つばめ図書館はそれで、全部。日曜日にお父さんが連れていってくれる図書館に比べると、つばめ図書館はびっくりするほど小さい。入口に小さな段差があり、そこで靴を脱いで、部屋にあがる。壁際にいくつもの本棚が置かれていて、そこに本が並べられている。奥の部屋には丸いテーブルが置かれていて、誰かのノートとか鉛筆がそのまま置き忘れられていることもよくある。「〇〇さんに寄贈していただきました」と貼り紙が貼られて、手前の部屋の棚の上に飾られた本もある。犬がサンタクロースの恰好をした絵が表紙の綺麗な本だ。
「ここ、前は、美容院だったらしいよ。」
 その本を手に取りながら、お母さんが教えてくれた。
「商店街のお店の子どもたちが、お留守番をしている間いっしょに過ごせるようにって、何年か前に空き店舗になった時に、つばめ図書館を作ることにしたんだって。」
 お留守番というものを、颯太はしたことがなかった。団地で暮らしている颯太の家には、いつも、お母さんがいた。


 つばめ図書館に来ると、颯太は決まって同じ本を読む。『かるがも探偵団』という名前の冒険小説だ。全部で十巻あるうちの、六巻目を今は読んでいる。入口の脇にぶら下がっているノートに名前と本のタイトルを書けば、つばめ図書館の本は、借りていくこともできる。だけど、お母さんは本を借りて帰ろうとは言わない。颯太もそれでよいと思う。つばめ図書館の本は、つばめ図書館にあるのが、一番しっくりしている。時々、ここに来て、少しずつ『かるがも探偵団』を読むのが、颯太には一番しっくりしている。『かるがも探偵団』は、最初、こんな風に始まる。

かるがも探偵団の冒険の日々を語るとき、
それに相応しい出だしの言葉は、この世界のどこにもありません。

 颯太は、一巻の、最初のはじまりの、ここのところを読むのが一番すきだ。まだ、読んでいない話もあるのに、何度も戻って、一巻ばかり読んでしまう。そのたびに、お母さんが初めてこの本を読んでくれた時のことを思い出す。ずっとそう思っていたが、今は本当に思い出しているのか、そんな気持ちになるだけなのか、ちょっと分からない。こないだ、お母さんが、
「昔、颯太に、『生まれてきた時のこと覚えている?』って聞いたら、『すべり台をすべって生まれてきたよ』って言っていたよ。今でも覚えている?」
 と嬉しそうに言った。
「覚えているよ。」
 颯太は、そう答えた。お母さんは、また、嬉しそうに笑った。


 颯太は、今日はじめて、ひとりでつばめ図書館にやってきた。今年、四年生になってからは、スイミングプールにはひとりで通うようになった。
 去年、ちょうど三年生になった頃に、颯太には弟ができた。その前の年のクリスマスに颯太がサンタクロースに「おとうとがほしい」と手紙を書いたからだ。弟が生まれたとき、お母さんは病院に入院していたから、颯太はお父さんと一緒にお母さんと弟に会いに行った。
「きみの弟だよ。」
 ベットにいたお母さんは、颯太の手を取って、弟の手に重ねた。その手はびっくりするほど小さかった。弟は、猫みたいな、変な顔をしていた。
 それから、弟は颯太の家にやってきた。厳粛な家族会議の結果、弟の名前は「さとし」に決まった。
 さとしは颯太の生活を一変させた。さとしがすぐに起きるからと言って、お母さんはぼくとお父さんと別の部屋で眠るようになった。朝目が覚めたら、お母さんはさとしを抱っこしていて、颯太に早くご飯を食べなさいと言った。颯太はいつも「お兄ちゃんなんだから」と言われるようになった。何でサンタクロースに手紙なんて書いたのだろう。そう考えても、もう遅かった。


 颯太は、つばめ図書館の一番目立つ棚に飾られている犬のサンタクロースの絵本を眺めていた。はじめてつばめ図書館に来た日から、ずっと同じ本が同じ場所に飾られている。
( すべり台をすべって生まれてきたことを覚えていないと言ったら、どうなってしまうのだろう。)
 そんなことを考えていると、奥に女の子がひとり座っていることに気づいた。女の子はテーブルに紙と本を広げて、何かを熱心に貼り付けている。その様子があまりに静かだったから、今まで気づかなかった。颯太は、思わず、その子の方に近づいた。
 女の子は何枚かの白い紙を虹色のテープで貼り合わせて長い一枚の紙を作り、その先っぽを本の最後のページの後ろに貼り付けようとしていた。長く伸びた紙は、まるで平べったい、本のしっぽのように見えた。よく見ると、裏返されたその本は『かるがも探偵団』の四巻だった。
「何やっているの。」
 颯太は、聞いた。女の子が颯太に初めて気が付いたという様子で、顔をあげた。
「続きをくっつけてるの。」
 女の子は答えた。
「なんで、続きをくっつけてるの?」
 颯太は、聞いた。
「このお話が納得できなかったから、続きを考えて、くっつけているのよ。」
 女の子は、答えた。よく見ると、紙には丁寧な文字が沢山書かれていた。
「自分で続きを考えたの?すごい」
 自分で本の続きを作るなんて、颯太は考えたことがなかった。そう言うと、女の子が改めて、今度はしっかりと颯太の顔を見た。そして、嬉しそうに、少しだけ笑った。
「山本くんは、何しているの。」
 自分の名前を呼ばれたので、驚いて、颯太はもう一度その子のことを見た。よく見ると、その子は同じクラスの春田さんだった。春田さんはクラスで一番背が高く、お昼休みもひとりで本を読んでいる女の子だ。教室で、春田さんと喋ったことがなかった。
「どんな続きを作ったの。」
「四巻の終わりで、悪者の怪盗団がかるがも探偵団に捕まって、街を追い出されるでしょう。怪盗団のひとたちが本当に悪者だったのか、どうしても気になるの。」
 春田さんは、喋っていても、とても静かで、ひとつひとつちゃんと選んで、言葉を話す。春田さんが喋ると、きれいに編まれた三つ編みが一緒に揺れる。春田さんは、しっぽの紙をめくって、最初の一文を見せてくれた。

怪盗団のあじとは、街のはずれにある森の中にあります。

 難しい漢字がたくさん書かれていたので、颯太はつっかえながら、続きを読んだ。半分ほど読んだあたりで、
「りなちゃん。帰っているの?おかえりなさい」
玄関の方から大人の声がした。
「おばあちゃん。」
 春田さんが、また静かな声で答えた。
「お隣の手芸屋さんのおばあちゃんだよ。」
 春田さんが、颯太を見て、言った。おばあちゃんは一度顔を覗かせて、こちらを見ると、また顔を引っ込めて、どこかへ消えた。玄関の先の、おばあちゃんがいなくなったあたりの空間を見ながら、颯太は、春田さんがクラスメートの男の子に「お家がラーメン屋さん」だとからかわれているのを見かけたことがあると、ふいに思い出した。その時も、春田さんはただ静かに座っていたと思う。
「ああ、いいにおい。たまらんわあ。」
 商店街の入り口を通り抜けるとき、お母さんが決まって言う声が蘇る。
「商店街のお店の子どもたちがお留守番できるように、つばめ図書館は作られたんだよ。」
 そう言っていた声が聞こえる。
 つまり、つばめ図書館は、春田さんのための図書館なのだ。そう思うと、確かに、春田さんも、手芸屋さんのおばあちゃんの「おかえりなさい」も、つばめ図書館にずいぶんしっくり馴染んでいる。
「颯太、ほら、エイがいるよ。」
 颯太たちの住む団地の傍には、細っこい川が流れている。スイミングスクールからの帰り道には、小さな橋をひとつ渡る。いつかの真夏の帰り道。まだ、さとしはいなかった。颯太はお母さんと手を繋いで、橋を渡った。練習をがんばると、いつもお母さんが褒めてくれて、帰り道には駄菓子屋でラムネを買ってくれる。颯太は、本当はスイミングよりも、スイミングからの帰り道の方が好きだった。
 その日、お母さんが腕を上げて、指を差したから、黒い影が、お母さんの腕のかたちに動いた。颯太は、お母さんが指さす方を見た。
「颯太、ほら、エイがいるよ。」
 橋の下を流れる川は、真夏のひかりを反射して、ちらちらと輝いていた。そのひかりの隙間を、灰色のひらべったい生き物が見えたり、沈んだり、水の中を動き回っているのが見えた。魚ではない、ということが颯太にも分かった。颯太は、お母さんの顔を見た。お母さんは嬉しそうに、まだ指を差している。もう片方の手は、しっかりと颯太の手を握っている。
 その夜、颯太は、お父さんにもエイを見た話をした。お父さんは驚いて「あんな川にエイはいないよ。」と言った。
「あれは、エイだったよ。」お母さんは言った。
 お父さんはびっくりした顔のままで、「俺も見たかったなあ。」と言った。次の日曜日に大きな方の図書館に行って、お父さんと一緒に「海のいきもの」の図鑑を借りた。


 颯太は、また、丁寧に紙を貼り合わせはじめた春田さんを、ゆっくりと見た。平べったい紙のしっぽは、あの日見たエイに似ているような気がした。春田さんがくっつけていくお話の続きが逃げ出して、エイになってあの川を泳いでいるんじゃないか、と颯太は思った。そうだとしても、きっと春田さんはただ静かに座ってそれを眺めているだろう。
(すべり台をすべって生まれてきたことを覚えていないと言ったら、お母さんはとても悲しむだろう。)
 春田さんの横顔を眺めながら、颯太はそんなことを考えた。


 家に帰ると、相変わらずさとしがリビングの真ん中に寝転がっている。こいつは、朝から晩まで寝ているか泣いているかうんこしているだけの本当にお気楽な奴だ。颯太はさとしの顔を覗き込んだ。
「きゃはっ。」
 颯太の目をまっすぐに見つめて、さとしが声をあげて笑う。颯太がちょっと変な顔をしてみせると、
「きゃはっ。」
 さとしはにっこりすると声を上げて笑った。
「すごい、すごい。さすがお兄ちゃんだね」
 お母さんとお父さんが後ろからさとしの顔を覗き込んできた。颯太はなぜかイライラして、もっと変な顔を作った。
「きゃはっ。きゃはっ。」
 やっぱりうれしそうに、さとしは声をあげて笑った。


 もう一度、ひとりでつばめ図書館に行ったのは、それから三週間ぐらい経った日だった。
 つばめ図書館の扉を開けると、今日は春田さんの姿はなかった。颯太は何となくがっかりしながら、図書館の中に入った。
 適当に本を手に取る。表紙がきれいな本。題名が面白そうな本。全然面白くなさそうな本。前に読んだことがある本。知らないことがいっぱい書いてある本。何冊か、「続き」の紙が丁寧に貼り付けられて、折り込まれている本を見つけた。最初に方に紙がくっついてある本もある。春田さんの仕業だ。どれも綺麗な字が整理整頓されて並んでいるから、すぐに分かる。颯太は、春田さんが「続き」をくっつけた本を探して、何冊も本を手に取ってめくってみた。
 春田さんがくっつけた本のしっぽは、やっぱり颯太の目撃したエイによく似ている。何だかこれから楽しいことが起こりそうな、わくわくした気持ちになる。
「こんにちは。」
 うしろから春田さんの声がしたので、颯太が振り向くと、春田さんがそこに立っていた。
「山本くん。ここで何しているの。」
 春田さんはふしぎそうに言った。
「探しているんだ。」
 颯太は答えた。僕は何を探しているんだろう。
 春田さんはじっと、颯太の言葉に耳をかたむけてくれていた。ゆっくりと考え込んでいるようだった。春田さんは静かに颯太のとなりに座る。ランドセルを降ろして、そこから紙とえんぴつを出す。
 春田さんは、その紙に、探し当てるように丁寧に言葉を書いた。颯太はそれを隣で覗き込んでいた。
「続きをどうぞ。」
 春田さんは、紙とえんぴつを颯太に渡してくれた。続きを自分が書くなんて。颯太は少し驚いて、えんぴつを握り締めた。だけど、続きは出てこなかった。
 颯太は、春田さんの顔を見た。春田さんは、やっぱり静かな様子で颯太の隣に座っていたけど、その顔はどことなく楽しそうだった。颯太と目が合うと、春田さんは、ふっと目を細めて、
「私ね、今日まゆちゃんにお誕生日会に誘われたのに、なんでか、行かないって言っちゃったんだ。」と言った。
 まゆちゃんは、颯太とも同じクラスの女の子の名前だ。いつも大勢の友達と騒いで、女子の中で一番人気の女の子だ。颯太にも、よく喋りかけてくるから、すぐに名前が分かった。
 春田さんは、それからまた黙った。その顔は、悲しんでいるのか、怒っているのか、迷っているのか分からない横顔だった。ただ、やっぱり静かに、春田さんは何かを考え込んでいた。
 春田さんが考え込んだ分だけ、つばめ図書館の本たちには続きが増えていく。春田さんが考え込んだ分だけ、春田さんは颯太から遠くへ行ってしまう。それでも、やっぱり本のしっぽはあの夏に見たエイになって、いつか泳ぎ出していくような気がした。
「ラムネ、飲まない?」
 思いついて、颯太は言った。団地の近くの駄菓子屋に、ラムネは売っている。いつか、スイミングの帰り道に、お母さんと一緒に飲んだことがあるから、颯太はそのことを知っている。
「ラムネってね、レモネードのことなんだよ。」
 春田さんはそう言った。
「行こう。」
 それから颯太の手を取って、春田さんは立ち上がる。颯太は、その時、自分の胸がどきどきと高鳴る音を聞いた。でも、それを知られちゃいけないと思い、平気な顔で頷いた。


 その夜、颯太は夢を見た。ラムネの瓶底の海の中を、エイがどこまでも泳いでいく夢だ。颯太はエイを追いかけて泳いだ。お母さんも、お父さんも、さとしもいた。夢の中なのに、夢を見ていることが分かった。颯太は、春田さんを探して、振り返った。
「早く起きなさい。」
 颯太は、目を覚ました。気がついたら、また朝が来ている。お母さんは颯太に声だけかけると、忙しそうにバタバタと姿を消した。颯太は起き出して、リビングに向かった。
 お母さんはさとしにご飯を食べさせようとしている。この頃、離乳食を食べ始めたさとしは、声をあげながら、お母さんに何か抵抗をしようとしている。スプーンを自分で持ちたいんだ。なんでだか、さとしの気持ちが颯太にはよく分かる。さとしがふかし芋を手づかみで口に入れる。
「よく食べたねえ。」
 それだけで、さとしはお母さんに褒められる。お母さんは、本当に嬉しそうに笑う。
(昨日書いたあの「続き」は、どの本にくっつければいいんだろう。)
 颯太は、自分もテーブルについて、朝ご飯を食べながら、そんなことを考えていた。今日、学校に行ったら、春田さんに聞いてみようかな。そんなことを考えていると、さとしと目が合った。
「きゃはっ。」
 楽しそうに、さとしが笑う。颯太は、目をぐっと見開いて、とびきり変な顔を見せてあげる。
 さとしの気持ちに比べて、春田さんの考えていることは、颯太にはあまり分からない。颯太は、綺麗に編まれた春田さんの三つ編みを思い出した。それからふかく考え込んでいた、遠い横顔を。
 学校に行ったら、春田さんに声をかけよう。その時、颯太はつよくそう思った。
「颯太、はやく準備をしなさい。学校に遅れるでしょう。」
 お茶碗を洗いながら、お母さんが慌てて言う。颯太は、いつもならそこで機嫌を悪くしてしまうけど、今日は、素直に頷いて、部屋に戻った。服を着替えて、学校へ行こう。
 例えば、こんな言葉が、颯太と春田さんのあたらしい物語にふさわしい最初の言葉になると思うんだ。扉を開けながら、颯太は思いっきり息を吸った。
「おはよう。」 

                             終わり

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