小説とエッセイを交互にアップします!2020年10月vol.8


 同窓会のお知らせの葉書が届いていた。

 優奈はその葉書を手に取ると、郵便受けを閉じた。エレベーターを待つ間に、文面を何となく読む。卒業から十年を記念して、という一文を読んで、そんなに時間が経ったのかと息を飲んでしまいそうになる。
 到着したエレベーターに、優奈は乗り込む。葉書を読むために下を向いていたため、出てくる人がいることに気がつかずぶつかりそうになった。
「あ」
 その人が声をあげる。
「ごめんなさいっ」
 優奈は思わず顔をあげて声を出した。
 黒いスウェット姿のその人は、同じマンションの住人なのだろうか、名前も住んでいる階数も分からない。軽く顔を歪めたその人は、一言も声を発さずエレベーターを降りた。
 優奈はエレベーターに乗り込み、九階のボタンを押した。扉が閉じて、かすかな起動音の中にエレベーターが動き始める。
 

 優奈は中高一貫の女子高に通っていた。明治時代に創立したというその女子高は偏差値も高くお嬢様学校として知られているような学校だった。優奈はクラスメートたちの顔をいくつか思い浮かべた。外からは「お嬢様」と言われていたが、変わり者も多く、自由で自立した雰囲気があり、女子しかいないことから来る解放感が始終学校中に満ちているような教室を、いまそこに立っているかのように鮮明に思い出す。
 

 放課後だった。ひとりで本を読んでいる優奈に鞠子が声を書けてきたのだ。
「本、好きなの」
 鞠子の美しい黒髪がかすかに揺れた。優奈は顔を上げた。その場で文芸部に入らないかと誘いを受けたのだった。グラウンドの方から、チアリーダー部の声がかすかに聞こえていた。そうそう、そうだったと優奈は心の中で声を出した。

 鞠子は高校生ながら熱心に小説を書いていた。数人の友人に声をかけて名前だけになっていた文芸部を復活させた。二カ月に一度のペースで部誌を発行し、お互いの作品を批評しあったり、課題の本を決めて読書会をしたり熱心に活動を取り行っていた。優奈は本を読むことは好きだったが、鞠子ほどの情熱はなかった。ただ、いつも不思議な雰囲気を纏っている鞠子と一緒にいたくて、放課後は必ず部室に顔を出した。鞠子は即席でついた顧問が部室に来ることを極端に嫌った。文学は誰かに教わるものじゃありませんから。教師相手でも一切怯まず鞠子は言い切った。高校生を対象とした文芸コンクールで鞠子が佳作を取り、その辺りから学校の文芸部への扱いも少しずつ変わっていった。後輩も沢山入ってきて、部活動はさらに活発化した。予算がついて、鞠子が必要とする本を買ったり、他校の文芸部との交流勉強会の費用に充てることになった。他校との繋がりも色々と出来ていき、さらに文芸部は研鑽を積んだ。
 

 優奈はそれまで読む専門だったが、夏休みに気まぐれで一遍の小説を書いた。何度も熱心に鞠子が進めてくれるので、鞠子が喜んでくれるならと書いた小説だった。長くなりすぎた小説は部誌には載せることができないと思い、優奈はどうせ書いたんだしと本屋で見かけた雑誌の新人賞に原稿を送った。半年後、その小説が史上最年少でその新人賞を受賞した。高校三年生になったばかりの頃だった。

 その後、優奈の周りでは色々と騒がしいことが起こり、部活はちょうど引退のタイミングが来て、系列の大学に進む予定がなかった優奈には受験もあり、文芸部に顔を出すことはなくなってしまった。鞠子はこのまま受験をせずに女子大に進むようだった。それが鞠子には似合っている、その時なぜか優奈ははっきりとそう思った。優奈は推薦がもらえることになり、都内の私立大学へ進学することになった。卒業式の日は文芸部の子たちと抱き合って泣いて沢山写真を取った。その中にはもちろん鞠子もいた。

 優奈は「脅威の新人現る」「見たことのない才能」「史上最年少」などと色んな言葉を背負ってその後の日々を送った。人の言葉よりも重いのは、自分自身だった。大学のキャンパスには大勢の同級生たちがいる。でも、その誰とも自分は違う。特別な才能を燃やして生きる、特別な人間だ。そう思うこころを上手く隠して、優奈は大学生活を送った。文芸関係のサークルには入らず、留学生との交流ボランティアを行うというサークルに入った。ボランティア活動を行うというのはただの名目だったのか、夏はテニスをして、冬はスキーをした思い出ばかりが残った。その中で恋人もできた。ふたつ上の先輩で、サークルの副幹事だった正樹先輩だ。先輩とは二年付き合って、別れた。就職活動にあくせくしはじめた正樹先輩が急に退屈に思えたからだった。

 新人賞を取って、受賞後第一作を書いた後は、優奈は小説を書く意味を見いだせずにいた。どんな人も生きているだけですばらしくて、生きていることがもっともすぐれた小説なんじゃないかしらんと思ったりもした。就職活動はほとんどしなかった。自分の特別な才能を燃やして、自分の人生を生きていく。その気持ちが優奈の底辺にあった。三つ年下の新しい彼氏が出来た。優奈が新人賞を取った小説のことを知っていて、
「大ファンなんです」
 と熱いまなざしで優奈に握手を求めてきた男の子だった。
 小説も書かず就職もせず大学を卒業する優奈を裕福な両親は咎めなかった。あなたのペースで生きていけばいいのよ。母はほほえんで言った。優奈以上に、優奈を特別と思っている存在がいるとすれば、この両親の他にはいない。疑うことのないほほえみがそこにあった。

 一年はフリーターのようなことをした。その後はデパートの食品売り場で働いた。働かなければ、社会に存在していないのと同じだ。学校を出た優奈を、社会という圧倒的な吸引力のようなものが襲ってきた。その暴風の中であっという間に歩けなくなった優奈は、とにかく仕事をしなければとすがりつくように働き始めたのだ。
 彼氏は不思議と途切れなかった。後輩と別れた後は、演劇をやっているという男と付き合って、その後はその先輩だという男と付き合って、バンドマンとかサラリーマンとか食品売り場の社員さんとも付き合った。どれも長続きはしなかった。頼みもしないのに両親は十分な仕送りをくれた。

 そして十年が過ぎていた。優奈は二十七歳になっていた。お風呂を沸かして、洗濯機を回す。細くて白い身体を鏡に映す。いくつかメールの返信を打つ。そのままいつもの癖でネットで興味のない記事をいくつも流し読みをしていく。鞠子はあれからどうしていたのだろう。卒業式で泣いていた鞠子を思い出す。少し迷ったが、優奈は出席に丸をつけて、葉書を返信することにした。


「優奈?やだ、全然変わらない」
 会場について、一番に声をかけてきたのは、同じ文芸部だった同級生だ。振り返ると、ぱっと笑顔になって、その子が優奈に近付いてきた。
「久しぶり」
「元気だった?」
 その子は大きなお腹を抱えて、やわらかな笑みを浮かべていた。優奈は、あ、おめでとうと慌てて言う。それから何人かの同級生と自然と輪になって、お互いの近況を話す。皆、話題が尽きないようで、誰かが話すと誰かがその話を受けて、ずいぶん賑やかな輪になった。その間も、会場を行き交う人から、あ、優奈と声がかかる。会場は立食パーティーだったので、色んな輪がくっついたり離れたりしながら、歓談の時間が続いた。何人かの先生や同級生が前の舞台に立って挨拶をする。充分な時間が過ぎ、そろそろ一次会はお開きだろうというタイミングで、最後の挨拶はこの人で、と司会からアナウンスがある。優奈は舞台に現れた女に目をやる。そこにいたのは、まぎれもなく鞠子だった。
「鞠子、大学のときに起業した事業が成功して、今じゃ会社の社長さんなのよ」
 同級生が親切に優奈に教えてくれた。あの時と全く変わらず、あの時よりも強く美しくなった鞠子が胸を張ってそこに立っている。
「学生時代の記憶は楽しくやさしく今でも思い出されますが、あの頃は色々悩みや苦しみの多い時代でもありました。挫折して道に迷った私はいろんな人の手助けがあり、自分の道を前向きに生きることができるようになりました。その経験があったから、若者の支援をする活動をしたいと思い、今は若者向けの就職支援や留学プログラム、キャリア形成の手助けをする会社をしています」
 大きなものに吸われるような抗えない力で、優奈ははっきりと鞠子を見続けていた。

 才能があるのは鞠子の方なのに。放課後の部室で、優奈は声を殺して泣いた。ずっと一緒にいたかったのに。鞠子は優奈の背中をそっと撫でた。やはりグラウンドから、遠くに運動部たちの掛け声が聞こえていた。
 挨拶を終えた鞠子が、檀上を降りる。会場に目線を投げた先に、優奈を見つけて、ふたりの目線がしっかりと合う。その瞬間、鞠子の顔にぱっと明るい笑顔が浮かんだ。
「優奈」
「鞠子」
 鞠子がゆっくりと優奈のところまで歩いてきた。その足取りからは、鞠子の「安定」がはっきりと感じられた。事業が成功したから、自信に溢れているのではない。自分の足でこの場所まで歩いてきたからこそ、安定して、今ここに立っていられるのだ。
 ふたりは、ただふたりきりでその場に立っていた。
「鞠子は、もう小説は書かないの?本当に才能があったのは間違いなく鞠子だった。私、今でもそう思っているよ。夢は叶うって、若者たちに教える仕事をしているんでしょう」
 矢継ぎ早に優奈は言った。
「夢?」
 不思議そうな顔で鞠子は言った。それは芝居でもなんでもなく、私たちふたりがあの教室から随分遠くまで来てしまったことだけが分かる笑顔だった。
「元気にしてる?」
 鞠子がそう聞いてきた。それで、やっと優奈は気づくことができた。
 みじめだったのは私だ。逃げていたのも私だ。怖がっていたのも私だ。小説を書きたかったのは私自身だったのだ。優奈は身体の底がかっと熱くなって、自分の足が震えはじめたのを感じた。鞠子の翳りのないまなざしが、まっすぐに優奈に向けられている。
「元気ではないけど、やるべきことをやろうと思う」
 泣きそうになってそう言うと、鞠子は不思議そうな顔のままで、やわらかく笑った。


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