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現在の職場について

 現今の仕事は重い箱などを上げ下げするなど、肉体を不断に使う労働である。そのため、運動にはなるだろうが、下手すれば相当の身体疲労を負う。例えば、腰痛,背中の凝り……おまけに、周囲の人たちとの遣取りや、些かタイトな時間制限を伴うタスクもあるので頭も使う。個性的な人たちとの関係も手伝って、心理的なストレスも生ずる。日々「ああかな」「こうかな」と、人知れず腐心しながらも、どうにかここまで大怪我などすることなく継続できたことには安堵する── 多少の身体的外傷(火傷,打撲)はあったが。

 職場では、季節変動は幾らかあるものの、毎日同じことが繰り返されている。また、工場内でのことであるから、光景が何も変わらない。怖いほどに、日々に変化や彩り、刺激がない。
単調な毎日が安定をもたらし、予測可能性に裏付けられた安心感を、多くの労働者は感じているように見受ける;当面はそれで良しとする人たちが、職場に居付いている……私はそういう心象を、この職場に持っている。
が、すると大抵は、企業全体の伸び代は狭まり、淀んだ士気の漂う職場になる。今の勤務先は食品メーカーだが、より良い品物を日本中の顧客へ届けよう、などという精神は、ほぼどこからも感じられない。見付けるのは、愚痴や不平ばかり。元より企業上層の常務取締役が、平素から社員に向かって怒鳴り散らしている── 溢れるが如く出る問題点を改善するよう指導しているらしい

 私は常に変化を求める。無論、他の人々と同様に、一種の本能として安定もまた求める。しかし、刺激がなくて、どうして人生は充実するだろうか。ネガティヴなそれをも含め、一切合切を受け止めるから、人生に彩りが生まれる。
近く私はこの職場を退しりぞくが、早いところ見切りを付けるのが正解だろう。この職場は、私には余りに狭い。よく1年も勤めたものだ。
私たちは安定を求めるのが常であるが、それを本能的に求めているのか、あるいは理性的に求めているのかなど、自身の現状についてより深く内省することが、何人なんぴとにも必要だ。年を取ったからなどというのは、言い訳に過ぎない。

 それから、私が幾ら下っ端だとしても、これだけ企業の目指すものが汲み取れないというのはおかしい。ここでは、その訳は私の汲み取る力がなかった、ということにしておく。それでもなお、驚くことに、常務の知らぬところで隠蔽体質が常態化しており、これは企業の存続可能性を低める遠因となろう。工場内に課されたルールの幾つかは形骸化している── 数も決して少なくない。社会勉強の一つだと思うことにしたい。ストレスの多いこの職場は、それ故に、退勤後の気分転換が大事だ。この1年程でその術を身に付けられたのだとすれば、私には充分な収穫があったと言えそうである。


※「吐露ノート」26篇目(2020年7月5日(日)執筆)より

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