人生に目当てを設定するときに大切な2つの問い 2/3

大いなる存在に惹かれているべきか

まず第一の問いであるが、これは、神といった超自然的で超人間的で超知性的な存在が、人を正義へ導くという信念に基付き、当該存在の意思(斯かる存在に意思なるものがあると仮定する。)に沿った生き方を実践することが、重要であるかどうか、ということである。おそらく本気でそう考える人は、宗教的な人間として生きているだろう。

いわゆる”神”という万能な存在が本当に認められるならば、それに従う生き方というのは、常に神の心中を探ることを求められる/強いられる。そのとき、何がその答えかというのは、宗教的な指導者の訓示・訓話ないし自身の思い込み(「神は○○○と仰せになっている」と信じ込むこと)でしかないのでないか、と私自身思っている。

つまり、神の存在を信じる生き方というのは、思うに、神という(概念の)枠組に収まっている生き方だということである。宗教的指導者を慕うときは、その考えに;自身の思い込みに浸るときは、その想いに、囚われた生き方が実践されるわけである。

それでは自由な発想は、必然的にいつも限界を抱えることになる。それが誠であるとすれば、私はそういう生き方を選ばないし、また支持もしない — 理解を示しても。

だから、神に導かれる人生というのは、私は好ましいと感じられない。歩むべき道は神が用意するのであって、その道を歩むことが人の正しい生き方である、と考えるのならば、その人の創造性は大いに阻害され得るのではないか。

神に従順な人生に熱意はあるのか、神を好く人生に自己実現はあるのか — そういった懐疑がこの胸中にはあるから、有神論的に生きることを謹んで遠慮する。熱意も自己実現も、豊かな人生には必要ではないか — ならば、私は潔く神を否定しよう。

がしかし、神を悉く否定してしまえば、期せずして有神論と同様の”限界”を見てしまう。つまり、神という概念を取り入れないことによる、創造性の阻害に逢着するのである。とすると、神を信じるときもあれば信じないときもある — それこそがまさしく自由な生き方ではなかろうか。

私たちはしばしば「困ったときの神頼み」と物するが、私は神を信じる瞬間もあって全然良いと思う —(消極的)無神論者として生きながらも。人生のあらゆる場面で、神の仮説(=神が存在するという仮説)が真であった場合と偽であった場合とを丁寧に考慮するのである。

個人的には神はいてもいなくても一向に構わない。ただ、神がいる世界といない世界とを、自在に行き来できる生き方こそ、少なくとも有神論者のそれと無神論者のそれとに比べれば、極めて自由な生き方である。

有神論者であり(ながら)、無神論者である、と言い張る人で私はいたい。正直にいって、そんな勇気や理論実装は持ち合わせていないけれど、その自由な生き方に、敢えて挑んでみたいと思う:自由は貪欲に求めていきたい質であるから。

なお、こうした考えに基づく生き方を不可知論とは呼べまい。不可知論とは、神の存在の有無について語るを敬遠し、信じようとも信じまいともしない立場である。だとすれば、私が示す生き方は、神の存在ないし力学を肯定しつつ否定するという、殊に神を積極的に論考しようという立場から出現するものであって、およそ”不可知論的生き方”とは称し得ないものである。

有神論的且つ無神論的な人生には、まったく以て熱意があるし、自己実現がある、きっと。無責任ながら、私はそういう、どこにも属さない、風のような生き方が、嗜みなのである。神という概念を巧みに操って、世界の多くの人々と楽しく、ときに熱く交流する — 有神論者が圧倒的にこの世に多いことは紛れもない事実であるから、無神論に留まろうとしない私的選択の事由が実際はここにも見出せるのだ。

超自然的で超人間的で超知性的な存在について、思惟を巡らすことからは、おそらく多種の刺激が得られるに違いない:神を考究するには、多様な言説に触れることが真っ先に要求されるからである。私はそこに、熱意や自己実現があるものだと強く信じている。

人生の目当てへの関連性は、経験則から個人的に導くものである。大いなる存在をポジティヴに捉える人は、相応の目当てを設定する傾向があるようである。逆にネガティブに捉える人は、一定以上、即物的に目当てを設定する傾向があるようである。これが真正であるとするならば、人生の目当ての設定には大きく関与する問いこそ蓋し「大いなる存在に惹かれているべきか」なのである。(続)

サポートいただきました分は、私の夢である「世界の恒久平和の実現」のため、大切に使わせていただく所存です。私は日々、夢に向かって一歩ずつ── ときに半歩ずつ── 邁進しています。