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筆5 オリ・パラの別々の開催は妥当なのか

 韓国の都市・平昌ピョンチャンで開催されていた冬季オリンピックが盛会の内に閉幕した。つづいていよいよ、冬季パラリンピックが開幕する。これを楽しみにしておられる方々は、世界中に大勢おられるだろう。

 さて、私には予て一つの疑念がある。それは、世界的な競技大会として催されるオリンピックとパラリンピックとが2つで1セットとされていることだ。
どうしてオリンピックとパラリンピックとが別々に開催され1セットで催されているのか、すなわちなぜ競技するにあたり健常者と障がい者とを区別しているのか── 疑問を覚える者は、世界中を探せばきっと少なくないと思われる。

 パラリンピックの起源は, 1948年、イギリスの某病院にて,「手術よりスポーツを」という理念の下、戦争により負傷した兵士のため催された競技大会にあるとされる。開催組織委員会を以てオリンピックと共同運営されるようになったのは, 2004年のアテネ大会からである。

 個人的に健常者と障がい者とを区別して世界的競技大会を催すのは、止めてしまうべきだと考えている:人権問題が史上にないほど注目を集めている現代世界の潮流からすれば、健常者と障がい者とは対等でないと喧伝し兼ねない、この"セットのしきたり"はまったく望ましくない、と思うからだ。
このとき、障がい者の競技レベルは、健常者のそれと比べ、身体的状態からして劣っているのだから、区別のうえ実施されるのはおかしくない、という意見が提出されようことは容易に想像できる。
しかし、一般にいう障がいを有していても、健常者と同等の競技レベルを持つ選手もいらっしゃって、このことは、十分に検討しなければならない点だろう。ここに、オリンピックとパラリンピックとを一緒くたにした競技大会を催すことが妥当である可能性が見られる。

 私は,「みんな同じ人間なんだ、同じ土俵に立ってお互い交流できるんだ!」という(ポジティヴな)メッセージが、人権啓発においては重要だと考える。オリンピック・パラリンピックという、伝統的な区別に基付く著名な競技大会が継続して催されていくことは、まさしくそれに反すると思う。
不治の「障がい」を有してしまえば、否応なしにすぐさま標準でいられなくなる、もはや"普通"ではいられなくなる?というネガティヴ・メッセージが、広く世界に流布しないために、オリンピックとパラリンピックとの合体について公的に協議されてほしい、と私は願います。

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