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中国と書物の記(3)【春秋戦国時代ってなに?】

【まだ周王朝が元気だった頃】

周王朝がどんな王朝だったのか。今回はちょっと歴史のお話から入ります。あんまり深入りするとややこしくなるので、ひとつだけ。「封建制」について簡単に触れておきます。そんなわけで今回は歴史の話が主になるので、ちょっと面倒くさいかもしれません。…あしからず。

さて、堕落した殷王朝を征伐して取ってかわった周王朝です。周の王は信頼できる一族や殷との戦いで功績があった家臣にご褒美として領地を与えます。こうして領地を受け取った一族や家臣を(封建)諸侯と呼びます。
彼らはふたつの事柄を周王に求められました。定期的に決められた貢ぎ物を献上することと、戦争が起こったときに兵隊を出すこと。このふたつさえしっかりと履行すれば、周王は諸侯に対して何も干渉しませんでした。諸侯には大きな自治権が認められていたわけです。
さて、諸侯だけでは広い領地を治めることは出来ません。中国はとにかく広いです。そこで諸侯は自分の家臣たちへ、自分の領地を与え大臣としました。周王が諸侯に対して行ったシステムを、諸侯は自分の家臣たちに対しても適用したのです。
封建制のもうひとつのキーポイントは地位は世襲されるということ。諸侯の後継ぎは諸侯の一族が継ぎます。大臣の後継ぎは大臣の一族です。身分が固定されてしまうのはネガティブな感じがしますが、周王朝が権威と実力を持っていた頃は、これによって秩序が保たれ、平和な時代が続いていました。
しかし、時代が進み周王朝の元気が無くなってくると…

【書物の名前が時代の名前になった!】

世界史の授業での頑張って中国の歴代王朝の名前を覚えたという人は多いと思います。前回までの舞台となった殷、周…今後取り上げていく秦や漢などですね。どれも漢字一文字なのですが、「いや、なんか周と秦の間に一文字ではない時代が入っていたぞ」というツッコミを入れてくれる人…ありがとうございます。「春秋時代」「戦国時代」またはふたつを合わせて「春秋戦国時代」という呼び名が教科書に出てきます。「春秋」も「戦国」も王朝の名前ではありません。では、一体このふたつは何物…?

周王朝は幽王という童話「オオカミ少年」と同じことをしでかした暗愚な王の時代に一度、滅んでしまいます。生き残った一族によって再興されたものの、もはや実力は無いに等しい存在となります。
こうして周王朝は「死に体」となり、存在はしているものの、以後、歴史書からもほとんど姿を消した空気のような王朝となっていました。

実権を失った王朝に替わって存在感を増し、歴史の主役に躍り出たのが諸侯たち。しかし、彼らは王朝を建てるだけの実力も権威もありませんでした。

後世の歴史家たちは考えます。存在しているだけで実権を失っている以上、「周王朝」と呼ぶのも違和感があるし、かといって替わとなる実権者が出てきたわけでもない。

ならば「春秋時代」「戦国時代」と呼ぶこととしよう。「春秋」も「戦国」という呼び方にはある共通点があります。さて、「中国と書物の記」…「書物」を主役とするのがこのnoteの本題でございます。実はふたつとも書物の名前に由来する呼称です。
後にも触れると思いますが、孔子は祖国である魯という国にのこっていた歴史記録を整理・編集して『春秋』という書物をかたちにしました。この『春秋』で扱われている時代にほぼ相当するのが「春秋時代」です。
これと似たようなかたちで「戦国時代」は『戦国策』という書物が記述している時代です。春秋戦国時代という呼び方自体は後世になってから出たものですが、時代を表す呼称として書物の名前が用いられたということは中国の書物の歴史家として大きな意味を持ちます。

両時代ともその移行時期に関しては色々な学説がありますが、空気と化した周王朝の様子をよく表していると思います。戦国時代は秦によって中国が統一されて終焉を迎えます。細々と暮らしていた周王朝は秦が統一に向けて本格的に動き出した戦国時代後期、静かに滅ぼされ、二度と復活することはありませんでした。

ちなみに日本でも織田信長などが活躍する時代を「戦国時代」と呼びますね。これは当時の公家が戦乱の日本を「まるで中国古代の戦国時代みたいだ」と嘆いたことに由来するとか。

春秋戦国時代は決して平和な時代ではありませんでした。しかし、戦乱故に書物の歴史は新たな局面を迎えることとなります。
中国史上、現代日本でも古典大好きビジネスマンたちに愛されまくりな孫子や孔子が登場する舞台が整います。次回は春秋戦国時代と書物の展開に入って参ります。乞うご期待!

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≪最終更新日2020年8月27日≫

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