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認識する生物の再考、デジタルとの結合

しばらく「認識する生物」を考えていなかったが、ふと最近になって進展があり、ここ数日考えている。

たぶん認識する生物に近い考えを提唱してる人は、人類史の中で100人、いや1000人はいるのではないかと思う。

それでは面白くない。自分だけしか到達できない、誰にも理解されないくらいの領域まで考えたいと思い、最近は掛け算をよくしている。

「認識する生物×言語」、「認識する生物×(縄文)時代」、「認識する生物×ペットボトル」…

少なくとも過去の人々が到達できないかつ私が到達できるのは、時代性を持ったテーマとの掛け合わせであると思う。そこで、思いついたのは「デジタル」である。

「認識する生物×デジタル」。単純に思いつくのはバーチャルでの生物の表現で、近代以降の命を吹き込みであるアニメーションがその例だ。私たちはキャラクターには疑いを持たずその命を認めている。

これは、過去の記事で書いた覚えがある。今回考えるのは、これ以外のアプローチだ。

我々がそもそも生物を生物として認識できるのは何故だろうか。それは目で認識した情報が神経細胞を電気信号で伝達され脳で処理されるからである。これはコンピュータの構造にとても似ている。入力に対してCPUが処理をする。我々の認識自体がデジタルとも考えることができるのである。

そう考えたとき、「生物」とは、機械学習でいう「ラベル」に相当する。生物という概念を我々は長期に渡り学習し、生物を生物と判断できるようになる。

学習が未熟な子供は、生物を生物と正しく捉えることができないというデータがある。彼らは「生物=動くもの」と仮説しており、雲や車は生物で、木は非生物と捉えるそうだ。

我々が生きていく中で、「生物」の定義を徐々に構築していくのであれば、それを破壊して創り直すのも可能であると考える。

非常に面白くなってきた。


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