アデイonline再掲シリーズ第1弾:パヨクの国~「かぞくのくに」映画評(日本、2012年)~
2017年3月~19年8月までの間に、新宿二丁目のミックスバー「A Day in the Life」のWEBマガジンの中で、私の映画評を88回掲載していただきました。残念ながらページは閉鎖されてしまったのですが、編集長の許可をいただき、私の「パヨクのための映画評」シリーズを再掲させていただきます。私が色々な意味で文章を書くに至ったのは、「私の実家が共産党支持で、子供時代はNHKしか見せてもらえず、「赤旗新聞」が日本の常識だと20歳位まで信じ込んでいた上、農学部ではコメ自由化反対派、修士では北朝鮮政治の研究をした」という青年(しかもゲイ)に育ったため、と言っても過言ではないでしょう。私自身の「左翼思考」から脱却するための苦悩と反省と諦念の軌跡を回顧しながら書いた2年半は、私にとって大変貴重でした。
これから時々、私の「パヨクごころ」を刺激された作品の映画評を再度掲載してみたいと思います。今日は、ヤン・ヨンヒ監督作「かぞくのくに」です。誤字脱字直さずそのままにしてみました。よかったらどうぞ。執筆は2017年の夏です(記憶が曖昧!掲載日を一覧にしたデータを紛失した注意欠陥オバジだから許して)。
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今回はちょっと重たい映画です。私は大学院で将軍様の国について研究をした筋金入りのパヨク。二十歳ごろ、企業への就職=悪事と潜在的に思い込んでおり、コメ輸入自由化反対とか信じたまま2000年代突入という、行先不明に陥っていた私があの国の文物に出会うのは、時間の問題だったと思います。当時は、あちらの雑誌や新聞を読んでいても、内容が頭にすっと入って来てしまっていたため、研究対象として読める箇所と、「ふむふむ」と読んでしまう箇所がまだらに存在していました。思想が偏っていることに気が付かない。それが思想教化の肝なのであります。最近になって、ふと見まわしてみると、宿敵であり生みの親である「思想」とのハルマゲドンが始まっていました。ここで書くものは、無自覚のパヨゲイ、思想に人生を生きられてしまっていた昔の私へのレクイエム…ビュオオオ…というわけで、今回は日本との関係が思いの外深い謎の国、北朝鮮についての映画、「かぞくのくに」についてお話したいと思います。これは事実をベースにしたフィクション映画です。
「帰国事業」で25年前に北朝鮮に渡った兄ソンホが、重病の治療という名目で、日本に住むリエの家族のもとに初の一時帰国。再会を喜ぶ家族の前に、思想と国家が打ち込んだ楔が立ちはだかる。
25年ですよ、25年もの間会えず、今回会ったら次はもう会えない。もうそういう悲惨な状況の中で、幼なじみ達が集まって、帰ってきた兄、ソンホが好きだった日本の歌を皆で歌うのね。その歌もきっと北朝鮮にいたときは歌えなくて、でもずっと覚えていた。感情を外に出さないことを身につけてしまったソンホが最初に少しだけ本音の顔をのぞかせるんだわ。周りに集まる友達もみんな同じ方の在日だから、大なり小なり状況を察して、デリカシーが無いなと分かりつつも、やっぱり歌うのね。それが「思想」を信じ、振り回された人生に唯一初めて許されたささやかな慰めなの。もうね、そのシーンで、パヨク、号泣。
そこで面白いのが、幼なじみの一人がオネエなこと。短髪・髭・ガチムチというかなり実際のゲイに近い形で出てきました。ファッションと髪の毛の色はよく見るゲイとは言えない感じだったけど、彼の台詞が秀逸:「今は、オカマも在日もオープンにして生きている人がいっぱいいるのよ」「私はマイノリティの中のマイノリティ」。全く違う世界に行ってしまったソンホに対して、そんな風に日本の「自由」を語ることはある意味残酷なこと。だがソンホの表情は始終穏やか。ソンホは感情を殺すことを習慣にしてしまったから。
それでも映画ですから、少しだけソンホが激しい感情を覗かせるシーンがあります。総連を代表するようなキャラ、父親を責める台詞を投げつけるんだけど・・・でも一番悲しいのは、父親も非難されている内容を端っから承知だということ、自分が信じてやってきたことの過ちも。そして、非難する方も、それを分かっているの。この作品に出てくる人達の台詞は、相手を責めれば責めるほど、非難の言葉が呪詛返しのように全部自分自身に返ってきてしまう。自分の無力さ、小ささを何度思い知らされたでしょうか。
映画の時代設定は1997年。一般的な日本人が北朝鮮について知り始める直前の頃。1998年のテポドン発射(衆知のとおり、北朝鮮内ではあれは人工衛星ということになっており、そのための政治思想上興味深い「物語」が展開をした)の1年前。2002年の小泉総理の訪朝を契機として、日本世論の対北朝鮮イメージは劇的に転換しました。韓国に対しても、太陽政策の金大中政権・盧武鉉政権下で進められた「韓流ブーム」も終わり、その後の「嫌韓ブーム」が来ている今の日本から見たら遠い昔。
バブル期終わるまでは、南北の韓国・朝鮮の国に対する日本人のイメージは、シーソーゲームのようにどちらかが上がればどちらかが下がるというものでした(『韓国のイメージ』)。それは所詮、その時々の日本人の願望を投影した幻想に過ぎなかったので、大量の情報が行き渡るようになった今、朝鮮半島に対する共鳴度が、日本国民としての政治的スタンスを測るリトマス紙になってきました。パヨク的にこれを認めることはきついけれど、それが2017年の現実なのだから、しっかり見なければいけません。
この映画を見ると、人間一人の人生や命なんて、国家や思想の前には哀れで弱い存在なのだと痛感する。だから、この映画を見て出てきた涙は、悲しみの涙と言うよりは、私自身のために流す、恐怖の涙なのかもしれないわね。この一家は「思想」のせいで分断され、それ故にがっちりと一つになった。本作から感じられるホラー映画のような圧迫感は、「思想」の不気味さそのものかもしれない。
本作は「国境が無くなればいいんだ」というパヨク的なファンタジーに流れませんでした。パヨクの思想そのものが彼らを苦しめる元凶なのだから当然よね。パヨクリハビリ中の皆さんは、主人公リエの心境をしっかり見つめてね。国境が人を痛めつけもし、守りもする。どちらも同じことの裏と表。思想は人を操り、大事なものを破壊させたり、守らせたりする。それもまた同じことの裏と表なの。
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