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竹美映画評43 内面化されたホモフォビアの処分法 『触手』("La región salvaje"、2016年、メキシコ)

アメリカでは、アンチゲイを表明している議員さんが、実は同性愛者で隠れて男性とセックスしていた、という事件は後を絶たないようだ。

ハンガリー与党関係者の事件も何か…。

ゲイであることを隠して権力に近づいて行く同性愛者男性…でもなぜ男性ばかりなのだろう。何かあるんだろうね。さて今回の作品『触手』は、トンデモSFの設定を使いつつ、ホモフォビアの問題を描いているんだけど、ホモフォビックなゲイについてちょっと違うことも考えさせられた。

映画は、ずるずると蠢く触手と、下半身露出した若い女性ベロニカの恍惚とした表情のシーンから始まる。お話の主人公は、測量技師のアンヘルの妻アレハンドラ。夫の恐ろしげな母親がやってる食品工場で働いてて、何か権力の構造が見えてしまう一家よ。彼女、夫アンヘルが自分の実弟ファビアンと浮気していたことを知ってしまって超ショック!そんなとき、ファビアンの友人ベロニカの薦めで、アレハンドラは人里離れた小屋に向かう。そこでは、謎の触手生命体が蠢いていた…。

西洋人の嫌うモチーフ「触手」を用いてとんでもSFと性の快楽を結びつけ、ホモフォビアを中心に据えて社会のしんどさを表現する凄腕映画。もはやホモフォビアは社会全体の歪みの結節点として描かれるまでになったわけね。とても興味深い。

ちなみに触手でセックスするというモチーフは日本発じゃないかと、『うろつき童子』の例を出して、アメリカ人の元彼が言っていた。

日本のアニメでは性器を描けない代わりに触手で犯す手法を編み出したのだ…って力説していたわ。浮世絵でもオオダコと交わる女のモチーフがあるしな…もしそうなら、日本発のエロがメキシコで開花したのだとすれば、だけどかなり数奇な運命感のある設定ね!

尚、触手の手練手管で男も女も魅了されていくんだけども、他の人のブログで触手は麻薬なのではないか?という考察も読んだ。私も、触手に魅了されている人々を見ると、幻覚系ドラッグでセラピーをやるカルトを暗示した映画なのかなあ…とは思った。触手セラピーを受けると皆すっきりした顔になるんだけど、やっぱりドラッグだから、体が壊れちゃうこともあるんだってのが、最初のシーンから明らか。

私ね、メキシコ人男性とも2年半程交際して同棲までしていたので、なーんとなくメキシコ男性には、大人になるまでに心がぼろぼろに荒廃してしまう人っていうのが一定数いる感じがする。元彼はそうだった。どうしても触れることのできない荒野があったね。ファン・ルルフォ『燃える平原』的な残虐性を秘めた空虚が。陽気なんだけど、目がね、虚ろに燃えている感じなのよ。

アンヘルは、普段からホモフォビックな差別発言ばかりしているのは、ファビアンにぞっこんだからなのかも。アンヘルの苦悩と罪と罰だけを描き出してもなかなか重いクィア映画になるとは思う。でもライバルは触手!!!!新しい!!!!!

触手に現を抜かすファビアンに別れを切り出されて大ショックのアンヘルは大酒を飲んで潰れる。とっても脆い。反対に、ゲイとしてオープンに生きるファビアンは健康的だ。アンヘルは、彼の健全で明るいところが好きだったんだろうな…自分も光の方に行けるのかと思ったんじゃ…。いいえ、闇は中々アンヘルを手放しはしない。

アンヘルは、両親から精神的にものすごい抑圧を受けると同時に強く愛されもしている。愛をもらうためにホモフォビアを内面化してしまった感じがする。彼は、ファビアンとの関係が知れ渡っても、むしろそれ故に積極的に妻と子との生活を望む。それは「社会の抑圧」のせいかもしれないけど、彼の真剣な選択なのだと考えたら、本当に厄介。そして、私の中ではゲイとして正しくない解釈が出てきて困っちゃった。

例えゲイとしてオープンに生きることにしたとしても、長年の傷の残りかすは、そう簡単には消えないと思う。後の方のシーンで出て来る実家のアンヘルの部屋が、鹿の頭のはく製や銃でいっぱいなの。ああこうやって育ったんだな。虚ろな目でぼんやりと銃を扱っているアンヘルの空虚。そして、実は銃の使い方も上手くない。両親に大事にされ、愛情深く愛されるからこそ、ホモフォビアが強まってしまう。また父親との関係が薄っぺらそうな感じがし、メキシコ的なのかな、支配的な母の溺愛と、従順な息子の服従も感じられる。あの手の中流以上の家族の母親って、人雇っての殺人とかも辞さないような腹の括り方してるもんね。やっぱりメキシコは発想が全体的に物騒。

私の元彼は、風のうわさでね、日本から送り返された後、メキシコで銃器の販売を始めたんだって。私、本作観ながら何か繋がっちゃった。彼が抱えていた心の荒野はちっとも無くなりはしないんだと。

「東京在住のゲイ」(これを忌み嫌う人もいる)としてぬくぬく生きてきた私としては、アンヘルの顛末を見ると、

あーあ、お母さんの勧めに従ってメキシコシティにでも行って、同性愛者としてぱあっと開花しちゃえばいいのにね!イモっぽくてモテるわよあんた!

と思うわけだが…「同性愛者として生きたくない」という考えを積極的に内面化している人はどうしたらいいんだろう。

第一にそう思わせている社会が悪い。その社会からの抑圧を押し返して、自尊心を持った同性愛者として生まれ変わる物語が、今のところネット上の大多数に支持されるロールモデルになっている。それが、現代民主主義国家にとり、社会秩序上も最適解だ。でも、社会(本当は、半径数メートルの親しい人たちの目線)を押し返せない自分ってのは、因習的な古い社会を再生産する、否定されるべき臆病者なのだろうか?むしろ…カムアウトして「勇気ある同性愛者」になることはマジョリティへの迎合なのでは…

アンヘルのように「自分の苦しさを外への加害でカモフラージュしている」男性については、

「そんなの、自分で何とかしろよ、甘えるなよ!」

と私も思うし、映画もそのように描いている。色んな人を巻き込まずに自分で何とかして欲しいわ。でも、こんなに情報の溢れている今ですら、「同性愛者として生きたくない」同性愛者が周囲に苦痛を撒いてしまうケースが散見される。彼らの何が救われないんだろう。そして、のんきなゲイとして生きる私ごときが簡単にその人を断罪しちゃったら、「自分の適性や経歴に近い仕事が全然見つからない」と愚痴を言う私に「こだわりを捨てて探せば何でも見つかるよ」とアドバイスする頓珍漢な人と同じになる気がする。

私も含め、誰もが頓珍漢なことを言う人なんだろう

アメリカで、同性愛矯正施設をやっていた本人がゲイだと告白し、今までの治療について謝罪するも、きらっきらなセクシー写真のついたネット記事を読んでしまうと、「お前軽いな…どうせ男漁ってたんだろッ」とやっかみ一杯で思ってしまうが、彼の本当のストーリーは誰にも分からない。

救いの無い状況にあるアンヘルだけど、ヘンテコSF設定のおかげでちょっと薄まるのが作品としては救いかもしれない。そして、アレハンドラは勿論、そしてアンヘルですら、最後一番いい形で救われたのだと思いたい。現実には決してあのような形で救われ得ない人々がいるから。

でも、上記のカムアウトのロールモデル物語を内面化しない人にとっては、最後のアンヘルの行先はぞっとするようなものだろう。。。じゃあどうしたらいいんだろう

人類越えたところにいる触手さんには到底及ばないことを言っている自分が恥ずかしいな…と思いつつ、今日も頓珍漢な文句を垂れます。

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