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アリアスター監督が褒める日本にどぎまぎしちゃう

『ミッドサマー』を観たとき、概ねアメリカ人から見た「外国」ってこういう風に見えているんだろうな、という種類の映画だ、と頭の中で分類されてしまった。面白い映画だった(まあ、やな映画だったってこと)けれども、ふかーくブッ刺さるものではなかったの。私にはね。映画評論したい人なのに、映像美とか記号とかにとんと無頓着なの。

様々な映画へのオマージュや表現の手法、宝探しのような楽しみ方、或いはただもう北欧ってだけでアガる人もいただろう。景色もデザインもきれいだったし、ふて腐れた菊人形になっちゃったダニエルも最後はにっこりと…。

さて、偶然下記のインタビューを読み、あらどうして今公開なんだろうって思ったけど(まさか今アリアスター監督が来日しているわけが…ゴゴゴゴ)、『ミッドサマー』についてあの程度の関心しか持てなかった私には面白い内容だった。

鼎談の中で、アリアスター監督はこう話している。

やはり日本特有のアプローチは、僕にとってすごく「異国のもの」として映るんですよね。だからこそ、僕はそれらを描いた日本映画に魅了されるんじゃないかなと思います。
日本は、儀式やそのプロセスをすごく大切にする文化があるなと感じていて、そこに僕は心を動かされるんです。
日本文化って「忍耐」をすごく重んじていますよね。僕はそれにちょっとロマンを感じてしまうんですよ…多分、それもアメリカにはないものだから…。

それに対し、映画グラフィックデザイナー、大島依堤亜さんはこう返している。

アスター監督の作品を観て、どこかオリエンタルなものを感じていたんですけど、それは日本の文化がアスター監督のフィルターを通って逆輸入されたオリエンタリズムなのかもしれません。

「オリエンタリズム」という単語が出てきてちょっとびっくりした。何かモルカー軍団の中に突然包丁が突きたてられている、みたいな唐突さ。この語は、西欧VS非西欧という二項対立に関し激しく論争される中で使われて来た用語だと思っていたので…私は

私たちは、あなた達が高みから語る「おまいら」とは違うのよ!私たちは私たちで私たちを語るのよおお!

という、アイデンティティと文化を巡る主導権争いの用語だと理解している。私は、私より上の世代にとって永遠の映画のフォーマットであるスピルバーグやルーカス映画にも「アメリカから見た世界」という意味での「オリエンタリズム的」な感覚ははっきり出ていると感じる。『アス』的に言えば「アメリカ人の原罪」みたいなレイヤーにあって、人種差別とはまた違ったところの議論ね。

最たるものは『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』のインド描写とか。あれは『ドナルドダックを読む』の中で「文化帝国主義」の脈絡で批判されていたアメリカの心の物語を、敢えてルネサンス的に強調するかのように再現した挙句、すっごく面白く、熱帯地域の途上国に対するあんまりよろしくない目線が全力で出ちゃった映画だと思う。カマラ・ハリスがアメリカで上映禁止にすべきと言い出さないかしら

アリアスター監督はこうも。

実は溝口監督の『山椒大夫』(1954年)が今まで見た映画の中で一番好きなんです。僕は『ミッドサマー』をある種の寓話(おとぎ話)として捉えて作品づくりをしていたので、『山椒大夫』は制作中、意識していた作品の一つです。

ひぎぃ!あの悲しすぎる物語を念頭にミッサマ作ってたんだね…流用されてそうな要素を考えると、益々アリアスター監督のあまのじゃくというか、伊藤潤二的なセンスが明らかになる。アリアスター監督にとっては、「日本的な要素」というのはあくまで設定、そして異国のものとして面白い材料になっているわけだ。しかも、インタビューの中で言及された「忍耐」や儀式のプロセスの重視というのは、『山椒大夫』の中ですら、あの時代、「日本の因習」として、むしろ批判的に描かれていたはず。しかし、アリアスター監督の言葉(のみならず、スピルバーグやスコセッシ等、昭和日本の映画を称賛してきたあらゆる欧米の言説)という浄化装置通して聞くと、何だか、「日本ってそうあるべきなのだ」と自分自身を再定義してしまいそう。それってオリエンタリズムを内面化した非西欧人だという気もするな…。反証もできそうだけど。

黒澤や溝口の映画で描かれ、アメリカの映画監督たちを感動させた「日本」要素は、令和の我々にとって何なんだろう。伝統的な「美」としてこれから再構築し体験し直して、彼らの目の前に見せつけ、ついでに自己満足も得るべきものなんだろうか。ニッポンよ、って。

或いは、外国人から日本的な美として昭和期の映画を持ち出されたときに、「日本ってそんなところもあるよね」と分かった風に返すべきものなんだろうか。

どっちも文化を楽しく生きるための実践だと思うけど。

思えば戦後昭和は、GHQからの指図を起爆剤に、欧米的な技術や世界観を必死に模倣しながら「日本的なもの」を相対化し時には批判し、一方で無意識にばんばん実践していた、ねじれた時代だったんだなと思う。昭和映画の面白さと元気さはそこにある。

例えば昭和映画の飲み会シーンでは必ず誰かが即興で歌を歌い出すが、あれは平成期には跡形も無く消えてしまった。あの数々の謡はどこに行ってしまったんだろう。私の世代には全く継承(ヘレディタリーw)されていない。あれは、「皆やってたけど何となくダサくて恥ずかしいと思ってた」ものだったのか。

失われた文化を遠い目で見ながらインタビューの下の方を読むと、アリアスター監督のくすぐりの上手さが際立っている。

日本の名監督が日本の古典を題材とした映画という意味では、小林正樹監督の『怪談』(1965年)も映画をつくる際、特に美術を手がける際に意識しているんです。小林監督がつくり出す世界観が素晴らしいので。
日本の幽霊を描いた映画が持つ、特に60〜70年代に発表された作品の優美で気品のある映像に、やっと今、世界の映画が追いつかんとしているのではないかと思っています。当時の日本の映画監督や脚本家たちは、「美的にどう見えるか」という“美”に対するアプローチへ、アーティストとしてすごくシリアスに向き合っていると、作品を観て感じるんです。

あああーん…気持ちよくなっちゃう♡これそのままストレートに取れば、「あの時代の日本の幽霊映画は凄みがあったけど今はよく分からないねーふふふ」と言っているのではないかとすら思うんだが…。

監督が言及した『怪談』は、ホラー映画好きならば、今Netflix(2021年2月現在)でも観られるので、是非観た方がいい。四編の物語は全て美しすぎて息をのむ。特に最後の「茶碗の中」では抑圧されたホモセクシュアリティがありありと出ていてびっくりするよ。

https://www.netflix.com/jp/title/60002456

手放しに「昭和映画ってすごかったんだ」と言うのも楽しいんだけど、では令和という、昭和平成で築き上げたものを切り崩す引退生活の時代において、あの昭和期の頑張った映画たちはどのように愛されるのがふさわしいんだろう。好きに愛するのが令和風かしら。

トヨタの社長も何かもう、最期に残すもののことを考え始めたようだし。

産業日本の黄昏を感じたよ…。社長就任早々に世界最大のしばかれ会に呼ばれ、従業員の優しさに泣かされたのも10年ひと昔だねぇ…。

さて、この投稿の写真なんだけどね、これは、古着として売られていた着物の帯を、外国人である彼氏が選び、ミシンでバッグに仕立て直したもの。そうだって言われなきゃ、誰も日本の美がそこに生きているなんて思わない。これもやっぱり、「外国人の見出した日本の美」だって言われなければ、ありふれた何かの一つに過ぎない。実際、ネットで売ろうとしたが全く売れなかったw。何となく私みたいで、逆に気に入ってしまった。

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