スピリチュアルブームは構造改革のたまもの

櫻井義秀『霊と金 スピリチュアル・ビジネスの構造』という本を読んでいるの。呪い研究のために読んでいるんだけど、約10年前の日本で、「オーラの泉」に代表されるオカルトブーム(オカルトという言葉を使ってはいないけど)が、行き先が読みやすかったバブル期までの日本社会に比べ、構造改革を経た平成中期の日本社会経済は、先読みが難しく、不安定化しており、その割に、バブル期までに上がってしまった生活水準や地位への期待値を諦めきれない我々の心の隙間に、「宗教」という形はとらないスピリチュアルの商売が発達しているのではと指摘している。
この本で面白かったのは、「自己責任」の考え方を基礎とする新自由主義的な発想のことも言っているんだけど、それ以上に、アメリカから一緒に輸入しちゃった「自己啓発」の方に注目している点ね。「自己責任」と「自己啓発」がセットになっているアメリカは、あのエンタメ大国ですものね、陽気さの演出に長けた社会ならではと思ったわ。そしてそのセットを日本も輸入している。映画「ミス・リトル・サンシャイン」にも出ているように、人生に失敗してる(=経済的繁栄から見放されているという意味において)男が、自己啓発セミナーで一発当てようとする様子が出てくる。あれが日本に入ってくると、自己啓発は「何となく宗教みたいでいやだ」という感覚のせいで少し敬遠され、もっと日本的に気持ちのよい、癒しや経済的成功への秘訣を与えるスピリチュアルという形に結晶化したと思う。
ちなみに、アメリカのジャーナリストの書いた『クレイジー・ライク・アメリカ: 心の病はいかに輸出されたか』(イーサン・ウォッターズ)という本では、うつ病は、アメリカから日本に「輸出」された精神疾患概念のひとつであると指摘している。時期はやっぱり90年代後半の構造改革の時代。あの時期に日本に入り込んできた色々なものがその後の日本を大きく規定しているんだわというゴゴゴゴゴを感じる。今思い出したけど、「ジェンダーフリー」も、その付近かもう少し後に、かなりラジカルなフェミニズムが誤って(早まって)法制度の中に入り込んでしまったのよね…と、2003年頃に大学院生してた女の友達から聞いたことがある。彼女、まだ研究しているんだったら、検証できたんじゃないかなと今も思うの。
本書の前半は統一教会のことを報告している。宗教に入って、莫大なお金を寄付や魂洗浄のために教団に払ってしまう仕組みについて。まあそこはね…私は、友達にその出身の子もいたので、合同結婚式にしても「自分で決めるよりも、(何て呼んでたか忘れた)偉い人に決めてもらった方が楽だ」と言っていたのね。彼女がどうしてあんなにやさしいのかなって思ってたけど、それは現世で実現したいことが少ないからだったのかもしれないわ。その後韓国に亘って韓国人と結婚したはずの彼女、元気かな。歌が上手くて優しくて、私が韓国に住んでて色々しんどかったときに、一緒に遊んでくれたわね。なのでね、お金を沢山吸い込んでいるし、教義と教祖のやっていることに大いなる矛盾があったとしても(それはカソリックにせよプロテスタントにせよ、それ以外のあらゆる宗教が防ぎ切れていないポンコツさw)、人の人生から苦しみを取り除いていることには間違いが無いの。だって数百万円で人生に悩まなくなれるなら、(それはもちろん人生の何から逃げたいのかによるのだが)安い買い物でしょう。
社会学者の本なので、基本には「ダマされないようにしましょうね」というメッセージがあるので、私のオカルト研究にとってすごく近い内容とは言えないんだけども、少なくとも平成期の日本においては、宗教はいや、スピリチュアルは結構人気があり、その背景には、新自由主義化した構造改革があるというのね。自己責任論って人を追い詰める意味もあるんだけどさ、「人のご厄介になりたくない」という日本的な「迷惑」の概念にぴったり来ちゃったのね。あとね、女性の人生設計には、どうしたって「収入の高い男性と結婚して専業(または兼業)主婦になる」という選択肢に合理性があるため、「なかなか見つからないいい夫候補」に出会うためにあらゆる手段を尽くしていることも、特に女性雑誌に占いやスピリチュアルを通じた夫探しが出てきている理由ではないかと。
「何でも自分でやりたい」自己実現欲求とセットになっている「他人のご厄介になりたくない(なるべきではない)」の自己責任論は、日本社会のイジワル化を推し進めているというのね。その隙間にスピリチュアルブームが来ているのではないかと。
あとがきで、筆者はこのままでは日本の社会はますますぎすぎすしていくので、何らかの変化を皆で受け入れていく方法を模索すべきと書いていた。私も同意見よ。この本は民主党時代の本だけども、その後安倍政権に入って結構経っている。安倍政権は、ポスト構造改革の時代、日本は新自由主義社会であるということを控え目ながらに隠さなくなってきている(一億総活躍社会、って結局働けなくなってお金も無いならさよおならという意味だもんね。それにしてはまだ優しい方だが)。そんな中でスピリチュアルブームは無くなってはいない。が、目立ってみんながチャクラが~とか気が~とか言わない。むしろ怪しんでいるが、そういう用語に慣れさせたことがあの時代の功罪かもしれぬ。「君の名は。」みたいな特別オカルトと明言しないのにあっきらかにオカルト化したコンテンツが愛される今、この方面の研究を更に進める必要がある気がするわ。次に来るのは、天皇家に関係することのような気がするのよね。もう既に、何でも天皇が天皇が言い始めている人も出てきている。あれは日本が巨大な宗教施設になる始まりなのかもしれないわね。中にいるから宗教だと気が付かないだけでね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?