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アデイonline再掲シリーズ第五弾 サベツする人は誰? ~「タッカーとデイル 史上最悪にツイてないヤツら」("Tucker and Dale vs Evil”、2010年、カナダ・アメリカ)~

2017年夏ごろに書いた本作に関するレビューを再掲いたします。

映画と社会を考える上では、「アメリカ(ハリウッド)映画は誰が最初に作り、誰向けに作られ、どの層を意識しながら発展したか?」というテーマは非常に面白いと思う。ロバート・スクラー著『アメリカ映画の文化史―映画がつくったアメリカ』は70年代までの話だけど面白かった。映画というメディア、そしてアメリカの「中心文化」の内容(欧州コンプレックス=文化の歴史の短さへの劣等感)、個人的自由の実現は、相互に作用しながら変化してきた。アメリカ人の個人的「自由」は、豊かになったことで手が届くようになった「映画の世界」がけん引した部分が確実にある。そして、もし「ハリウッド映画に置いて行かれた層」がいたなら、当然映画と現実は乖離するでしょう。

非難する主体・非難される主体・被害に遭う主体・非難するときに互いに貼られるレッテルが微妙にずれて変な風に重なってもつれている今を、2010年オバマ時代の映画が予見していたのかどうか。「笑い」の持つ毒、表現規制によっては解決されない色々な絡み合いについて嫌でも考える。

アメリカの中にある階層化された差別を正当化したり強化する仕組みがどこから来ているのか…ピューリタニズムを下敷きにした「旧世界から逃げてきた人々の末裔」と「その人達によって連れてこられた人々の末裔」、「消された人々の末裔」が重層化すると何が起こるのか…下記の中で言及した『コールド・マウンテン』(2003年)の「都会の白人ニコキ」と「田舎の白人レネー」というレイヤーと、「悪い田舎の白人」の重層的な構造については、後年の『スリービルボード』(2017年)も併せ、考えるべきポイントの豊富な映画かもしれないね…


(内容について修正なしですが、一部太字にしてみました)

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パヨクが怒りを向けつつも愛してやまない国、米帝。昨今、再び南北戦争のように社会が分裂してしまうのではと懸念されている米帝ですが、今日は、米帝が抱える社会的な分断をお笑いホラー映画にしてしまった作品を紹介します。


どうして今回これ選んだかぁ!?8割がた私の男の趣味です。

タッカーとデイルは仲の良い幼馴染の中年男性なシングルノンケおじさん。デブで口下手なデイルは自分が女子に好かれないと思い込んでいる。大丈夫、オーバーオール着てキャップ被ったぽっちゃりな君のファンは(ゲイだが)山ほどいるから(でもデイルの中の人は分かってるからあたし完全に余計なお世話)。他方、タッカーは薄汚いシャツを着ていて少し気が利かないがいい親友のアラサー(蛇足だがアナタのファンも)。二人は山奥に薄汚い小屋買って、ボロいピックアップトラックに乗って遊びに来たの。最高の遊びが夜釣り。幸せが慎ましくて泣ける…他方、同じ森にキャンプに来てた大学生キラキラ軍団は彼らを警戒する(サベツ警報発令)。大学生キラキラ軍団の中で、キレイだがちゃんと主張はあるから私は心理学専攻なのよ、な女子が湖でおぼれているのを夜釣りしてた二人が助けたわ。すると他のキラキラ達は、「彼女がサイコキラーに誘拐された」と勘違いしちゃったから大変!


最近のステキ腐女子ワードで言えばブロマンスものとしても大変よろしい本作。のっけからゲイネタ登場よ!だって男同士で仲良しだから!当たり前じゃない!内気な親友の幸せを一番に考えるタッカーにもああああんだが、根がガサツなのでちょっとモメたりする様子にもああああん

本作、わざとなのだと思いますが、影の部分がものすごく暗くて見づらい。その中で私を喜ばせた最初のシーンは、キラキラ女子大生アリソンが目覚めるシーン。そこでデイルの顔が初めてアリソンの目にちゃんと映るんだけど、デイルの目が青くてきれいなのよ…目が青いってすごいなと常々思う。
ちなみに、私がこの15年間くらいテクを磨いてきた「レニー・ゼルウィガーのふっくら笑顔」っていう物真似があるんだけどね(誰だか分からないくらい似てないのよね)、彼女ね、目は青くてパツキンなのに全くと言っていい程金髪碧眼のありがたみを享受してません。「コールドマウンテン(別名:ハウス名作劇場「山娘レニーの冒険」)」での頑丈な農婦役でオスカーもらうっていうね、そこ別にあたしの売りじゃないんですケド…みたいな。共演は金髪碧眼のニコキだから勝てないよね…そんな田舎な金髪碧眼もいるの…


で、本作ですね、「田舎者(hillbilly)」という言葉が思い出せるだけで3回使われるところに現れていますが、アメリカの田舎のイケてない層への嘲笑を逆手に取った映画なんです。トランプさんの台頭を支えたとされるような、ネルシャツ着てキャップ被った中年太りの「教養と収入が低めの白人男性」のイメージそのものずばりな中年二人が主役。対する、都会から来た、若くてかっこよくて、人種もバランスよく混じってて頭よくてお金持ちなリア充(りあ・みつる)大学生たちは、彼らを内心バカにしているからこそ、彼らを怖がるわけ。本作、ダサい男が自分に自信を持っていくという、微笑ましい、ゲイの喜ぶファンタジー映画として秀逸なんだけど、同時にアメリカ国内の分断を描写した映画なの。同じ国なのに、使う単語まで違うのよ。便所を意味する単語を巡る不器用なやり取りが印象的。


本作ね、ホモ視点で見れば、デブのデイルが「気は優しいが力持ち」なうえに目も青いっていう一人勝ち状態のようでいて、普通の世界では自己評価の低い、無駄にハンサムなデブの哀しみが止まらない。そうよね…その見た目じゃあ、ロードオブザリングのコスプレ大会か、マドリードのゲイバー主催の熊祭りで優勝する方が違和感ないもんね…でもそれはあなたが暮らしたい世界ではない…


ところでね、大学生たちが2人を「サイコキラーと勘違い」しただけで終わりません。これ半分ネタバレなんだけども、ある人物の素性が判明し、「You are half-hillbilly」って言われてしまうシーンが出てきます。その人物の自我崩壊シーン、コミカルでありながら少し切なかった。多分北米の観客はそこで大笑いしたのだと思うけど、自分がバカにしまくってた何かが実は自分の本性だったなんて、普通知りたくないじゃない。


ところで、昨年(追記注:2016年のことを指す)辺りから日本でもニュースになってきているのですが、アメリカで起きている「白人至上主義のサベツ主義者」対反サベツと見える衝突は何なのでしょうか。「反サベツ」の旗のもとに人がたくさん集まって、「サベツ主義者」に対してカウンターデモを繰り広げる状況は、オバマ時代の成果なのかもしれないし、健全なこと。でも…「サベツ反対」の声援をよく聞いてみて。その中に、教養のない、意識低い系の白人っていう、タッカーやデイル達への侮蔑のまなざしがありはしないかしら。サベツ反対=善なる少数派 VS サベツする悪い方=多数派・体制側、という枠だけを考えがちなパヨクの皆、本作を見てどう思うかしら。本当は見えている以上に入り組んだ、少数派VS少数派の戦いが後ろにあるんじゃないかしら。


とは言え、そんな「思想戦争」とまで言われている現状さえもB級娯楽映画のネタとして消費しているのか、それとも何かを誤魔化しているのか…米帝にはまだまだ知りたいことがいっぱいよ。

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