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いつも側にいる、ババドック

言われてもない言葉が勝手に頭に浮かんできて、誰かをひどく憎むことがある。友達は

それは呪いのせいよ!多分親とか何かから貰ってしまったものだから、徹底的に言葉にして考えたら弱まるよ

と言っていた。私は、彼氏との関係において時々それが起きる。彼に言われてもいないのに、責められているような気がしてくるのだ。その負い目を庇うために、呪いのパワーが発動され、自分でも驚くほどきつい言葉が出てくる。後になると、なぜそんなに腹が立ったのだろう?と思う。その度にとても自分を醜いと感じ、恥じる。

友達が夫婦で喧嘩をした後、やはり同じように自分を恥じて、自分が知らぬ間に持っている呪いを断ち切りたいと言ってこう言った。

呪いがなくなることはないが、自分の一部としてうまく付き合えるように

と。これを聞いて、『ババドック』の物語の理解の最後のピースがバシッとハマった気がした。

同作はオーストラリアのホラー映画。シングルマザーが一人息子に手を焼いて狂いかける話。それだけでも充分つらいが、その魔物が子供を攫おうとする。ダブルパンチの危機。でも、面白いことに(ネタバレよ!)魔物と何度か対決した結果、魔物を破壊したり追い払うのではなくて、飼い慣らしてしまう。友達の言葉の通り、否定はせず誤魔化しもせず、私の一部としてつきあう、ってそういうことなのだとやっと分かった。飼い慣らすってことはたまには手を噛まれることだって織り込み済みなのだ。あのホラーが独特なのはそこだ。

何度か書いたつもりだが、特にアメリカのホラーは、悪というのは自分の外にあると考え、それを対象化した悪魔という存在を追い払うタイプの映画が非常に多い。日本のホラーであれば、やはり同じく、祟りによって不快な行動を取る人々が描かれる。悪の基準がハッキリしない日本の場合は、周りにとって不快、または異質な言動を取ることそのものが忌避の対象なのだと思う。そして、悪というものをはっきり対象化して倒すというよりは、両サイドの事情を描きつつ(ということは、対決する二人は本来は同じところから出てきており、一人の人の二面性とも取れる)、悲劇的な対決を迎えるお話の方が好まれているのではないか…と『海の闇、月の影』や『デビルマン』を見ると…考える余地もある。

そんな中で、アメリカホラーの物差しで色々な国の映画を測定すると、逆にアメリカホラーの物差しの方が特殊なのかもなぁという気がしてくる。というか、一旦そう捉え直してみたら、様々な国におけるホラー映画に描かれる対決や勝利や敗北、飼い慣らしや駆逐の意味がざわざわと感じられるようになる…かな?

オーストラリア映画特有の絶望感と希望は、息子に対して発狂してしまうほどの怒りを感じるシングルマザーの苦しみを、魔物として登場させる。そして、そいつと格闘させるのだ。ある視点から見ればそれは、母親というのはそのくらいやって当然なんだと教える『保守的な』物語になるのかもしれない。←この物言いにも、私自身の中にある呪いの存在を感じる。そんなこと、誰からも聞いたことが無いから。憶測だからね。

でも、私は、母親だからという意味よりも、危機に陥った人間が、いかにして原因をある程度特定し、格闘して自分の配下に置くかという物語だという意味合いで、みんなの物語だと思う。

学校では子供に精神的問題があると言われ、きーきーきーきーうるさく騒がれたら誰でもキレます。そのキレるさまは、私としても見ていて辛かった。初めて見た時点では、子供の頃に、父親のヒステリーを内面化して、妹がギャーギャー泣いてるときにこちらも益々怒鳴ったり叩いたりしていたことを思い出すから。そして最近ならば、東京で彼氏養ってたとき、彼と喧嘩して、出てきた私の言葉『うるさい!』が、完全に、子供時代に私が耳にして嫌だった父親の言い方そっくりそのまんまだったことも思い出す。アレはずっとついてくるのだ。いつも側にいる。自分自身を善人だと思い込もうとしているときですら、アレはすぐ側を離れない。

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はい出ましたイットフォローズ。これは監督の見た悪夢と、少年の童貞喪失をベースにしているから、ホラーだけど不思議にきれいで愛おしい映画になっている。青臭いんだな。

が!ほぼ同じ頃製作された『ババドック』は、子育てという現実を題材にしているので生々しい。大人だって日々自分の限界という苦しさと格闘しているのだと言っている。夢が無い!ファンタジーとは本当はおっかないものなんだと言うル=グウィンの言葉を私は全面的に支持する。

『どうせこんなふうに思って私のこと見下してるんだろ!』って、私が言ってない言葉を自分から吐き出しながら私に怒りをぶつけた人が最近いた。たまーに出くわすが、落ち着いてください。あなた、それ、あなたが自分に対して思ってることだからね。私はそんなあなたをジャッジできるほど知らないし興味ないよ。

…と、他人のことならば言えるのに、何故自分自身のことは分からないのか。私もまた、同じことを色んな人に対してやってきたじゃないか。去年の私はひどいもんだったよ。今も大差ない。

不思議なもんだよ。他人のことや、映画ならば分かるのにね。どうして自分はダメなのだろう。ある意味自分が映画の中にいて、他人から眺められているのだね。

だから、呪いなのだと思う。やはりそれも自分が背負ってしまっている属性。それを背負ってる現実を受け入れない限りはそいつはどんどん力を増して、逃げても逃げても追ってくる。でも、そいつの顔をよく見て。そいつは、疲れ切って血の涙を流すその怪物は、過去のどこかの私なんだとわかるはず。自分が産んだものもあるだろうし、私のせいではないのに背負わされた何かでもある。

背負わされた呪いを相手や他者のせいにして責めても『私の世界』は変わりようが無い。永遠に怪物に囚われたまんまになる。

そうではなくて、一度そいつを自分なんだと認めて、受け止めてやれば怪物は段々と落ち着いてくる。別にしたくなければ、そいつに優しくしてやらなくてもいい。ババドックみたいに、或いはマリグナントのように、そいつを凶暴な手法で飼い慣らしても構わない、それが、ホラーファンタジー映画が我々に教える一つの答だ。そして、ル=グウィンがファンタジーについて述べた通り、私は、ある種のホラーは、完全に自分を変えてしまう可能性のある大変危険な冒険だと思う。面白がって笑っていたその相手がまさに自分自身かも知らないのだから。

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