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竹美映画評⑦ オバマ期の黄昏 テレビドラマシリーズ「13の理由」("13 reasons why"、2017年~2019年)

やっとシーズン3を観終わりました。元々、女子高校生ハンナが自殺をとげ、生前関係のあった13人に向けたメッセージを吹き込んだカセットテープが遺された、というかなり重いお話だったけれども、シーズン重ねる毎に益々重みを増していったね。
主人公たちは高校生で、現代アメリカ社会の特徴的な側面をよく描いているんだろうなあと思った。
どうして自殺を…という理由は本編をご覧になったら分かるのだが、死んでも尚、ハンナは亡霊のように皆の頭に棲みついている。
その理由になった13人の子供達が置かれている状況があまりに余裕が無い。

主人公のクレイ(「ドント・ブリーズ」のお馬鹿さん学生役が懐かしい)は、クラスの中では中くらいの位置にいて、誰とも話はするが、本当の友達は少ないという立ち位置。その立ち位置だからこそ、周囲の皆の抱える問題に足を突っ込みながら彼なりに不器用に格闘していくの。恋愛感情に振り回されたり、正義感を非難されたりする様子が痛々しくてね。彼が周囲の皆の信頼を勝ち得ていくプロセスが全く嬉しくない出来事の連続として描かれている。

仲間外れ、ドラッグ、貧困、レイプ、いじめ、銃乱射未遂事件、不法移民、体育会系男子文化、オタク、「男」としてのプレッシャー…「glee」ではエンパワーメントの物語の素材として描かれた問題が、全て子供達を孤独にし、行き場の無い状況に追い込んでいると描く。

オバマ期の青春ホラー・サスペンス映画に特徴的な、①親の存在感が薄い、②子供が自分で何とかしようとして物事を悪化させる、という要素がさらに先鋭化している。オバマ時代は、「変わっている子こそ素晴らしいのだ」ともてはやしたが、持ち上げるだけ持ち上げたが、世の中はさほど変わらなかったということをこのドラマは突いている。クレイの父親は、あまり印象的なことをしないが、子供を案じているのに子供のことが分からないリベラル親の典型のように見える。

「メキシコ」の描き方も「運び屋」が暴露したような風潮を思わせる。主人公の親友トニーの家族のことはほとんど出て来ないが、その「ほとんど出て来ない」ことが問題の深刻さを思わせる。また、シーズン3では恐ろしいことが起きており、世相を反映しているのだと思う。警察官のトニーに対する横柄な態度も怖い。一方で「悪いメキシコ人」が「いいメキシコ人」を搾取しているという描き方にもなっていて、何だか気が重くなった。

ただ、薬物の描き方は、「ハリウッド映画」と違って大変真摯に描いていると感じた。

シーズン3が発表されて、ハンナのことはもう終わったはずなのにどうするんだろうと思っていたら、まさかの展開!ハンナを自殺に追いやったアメフト部の白人金持ち男子(ありがち)のブライスが何者かによって殺害されるという…正直彼ほど嫌ったらしいキャラもそうそういないので、あの俳優さん、あの若さであの役を非常に上手く演じててすごいなと感心してしまう。3は彼が事件の後、どのような心の道筋を辿ったのかということがメインのお話。そこでねえ…私はこのドラマの本当の懐の深さを感じたよ。

「俺は壊れているんだ」というセリフを言わせたり、彼の攻撃的で暴力衝動の強い性格がどこから来ているのか、ということも描く。
この問いはきついよ:「俺は一生極悪人なのか?」。それに対して世間は「もちろんだ!」と言うのが「正しい」のだろう。だが、本当にそれで問題は終わるんだろうか…本作はそこがえらい。「glee」では悪い奴は悪いんだとしか描かなかった(というかあの時点ではあのように描くことに大変意義があった)のだが…ブライスの被害者であるジェスは、自ら痛みと共に生きることを苦しみながら選びとり、「高校を改革してあの悪い体育会系男子カルチャーと決別しよう」と生徒会長になる。体育会系男子カルチャーに「No」を突きつける女学生たちの憤怒は留まることを知らず、ブライスの葬式で騒ぎを起こそうとする。彼女たちの姿は、何だかオバマ期的なあの「悪者に人権なんか無いんだ」という行き過ぎたバッシングを思わせる。だが…ジェスは悩む。苦闘した分だけ思慮深くなったのだ。そこが尊いが、そのように描かなければ、薄っぺらい理解や解釈しか生まなかっただろう。論争も起きるだろうし、絶対ジェスの言動は受け入れられないと思う人もいるだろう。

「叫ぶだけで充分なの?怒りをぶちまける前に、私達がやるべきことは、つらい目に遭っている人の話に耳を傾けることよ」。

これはオバマ期的な反差別の熱狂に対する痛烈な冷や水だと思う。子供たちの物語であると同時に、大人社会への批判でもある。オバマ期的な反差別の熱狂が、結局のところ誰を救って誰を救わなかったのか?今それをアメリカ国内でもちゃんと考えたい人達がいるのだろう。

子供達が自殺してしまうのをどうやったら止められるんだろうか、その苦しみを終わらせる方法は、と考えると結局「辛抱強く生きる」以外何も答えは無いのだ。

私は、「ロケットマン」の映画評では、世間からズレてしまっている変人のあんたに「どうか世界と自分を呪わないで欲しい」ということをどうしても書きたかった。どっちみち苦しいのよ。宗教テロ、人種テロ、銃乱射したり、関係ない小さい子供たちを切りつけたり車ではねたり、ネットで「差別主義者」に罵詈雑言浴びせて「断罪の快楽」に酔ったり、それが本当に、オバマ期という時代に多少なりとも「いいこと」について目を向けようとした世界のやることなんだろうか。

宗教上の理由で「同性婚のためにケーキは作れない」と主張することの本当の問題は何なのだろう。「ああそうっすか。他のところ行くんで、ばいばい」で終れない程に、アメリカ社会全体が「Purge」に沸き立っており、それを裁判で争ってしまった結果、「イジワルすること」に変なお墨付きを与える形で社会を分断してしまった。盛大な開き直り祭りである。「それはあいつらが悪いんだ」と壁を作ってしまうことは、本当に何か役に立つんだろうか。

怒ることも大事なのだ。もちろんそれが始まり。でもそこに留まっていいのだろうか。

そういう中での「13の理由」は、大変重い。

現実には反省するブライスはいないし、弱い子を暴行する隠れゲイが家で虐待されていたりはしないのだろうし、レイプを乗り越えることもできないのだと思うし、虐められた子は自殺するか銃乱射して呪いを発動させるのだと思うし、もっと皆はバラバラで、単に男子はクソで、女子は自己肯定感が持てず、荒んでいて、大人は何もできないのだと思う。その現実を前に、「もし、こうだったら?」という形で問題を提起する本作の優しさの方に目を向けたい。イントロの音楽もいい。楽しく幸せに過ごすことができない小さい世界に囚われた若者たちの寂しさを俯瞰するような秋の優しさがある。俯瞰するということは、手出しをできないもどかしさに耐えることでもある。

シーズン3は、ある人物に濡れ衣を着せることで幕を閉じる。だが、「それは正しくないよ」と一言言って去っていく人物がいる。暴力の連鎖の中から逃れることができなかった人物に、たった一人寄り添うことができた彼の発言も重い。そういうものを引き受けて生きるしかないのだ。「13の理由」は、自殺や殺害の理由を語りながら、13の生きる理由を伝えようとしている。

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