竹美書評 「思想転向」を訂正する(東浩紀『訂正する力』(2023年)朝日新書)
思想転向。思えば私はこの言葉に30代を支配された気がする。
20代、まだ学生だった私に、左翼思考は今後の学問の世界では受けないから、という表面的な理由ではあったが、「思想転向しなさい」とアドバイスを下さった先生の言葉は強烈だった。そっか!私は左翼なんだ!そしてこれでは今後の世界を分析できないんだァ!と2006年頃に思い知った私は、色々な本を読んで分かりやすく左翼的思想を「嫌い」になろうとした。が、嫌いにはなれても、その思考から脱することはできないのだ!
その頃に、伏見憲明『欲望問題』が折よく出版され、それを読む機会をいただいて更にドツボにハマった。
結局学問から逃走した。
そういう、20代の終わりにやろうとした稚拙な「思想転向」とは、「自分の中の左翼的思考・発想を全て否定してその正反対の価値観の人間に生まれ変わること」だった。故に表面的に「私と正反対の考え方の人」がうらやましいと思いながら
30代を過ごした。
今思うと、何という知的怠惰だったろうかと思う。
今回読んだ本、東浩紀『訂正する力』冒頭ではこう書いてある。
今の日本では「変化=訂正を嫌う文化」の中で「ぶれない」ことと「リセットする」ことだけが評価される傾向が強いが、そんな稚拙な発想は対話を生まないし、民主主義的ではないぞ、だからその2つの間でバランスを取る「訂正」が必要だ、と語っている。
日本の社会にとって本書のこの部分が一番大事なのだと思う一方、本著を読みながら「私個人にとってはどんな意味がある本なのかな」と考えた。すると、冒頭のとおり、「思想転向」という言葉が浮かんできたのだった。
「思想転向」に挫折した自分、つまりは結局「変わらない自分」にがっかりした20代の自分、諦めていた30代のことを、今40代で考えているのだ。「同じ自分を維持しながら、昔の過ちを少しずつ正していく」という本書のいう『訂正』はやって来たのかもなあと思った。
思想転向は、私がかつて思っていたような意味では不可能で無意味であると今は分かっている。
この「思想転向に憧れ志半ば」という中途半端な自分を結構長く過ごした体験は、二丁目のバーA day in the lifeのウェブマガジン、アデイ onlineの中で、「パヨクのための映画批評」という奇矯なテーマで映画評を書かせていただくことに繋がった。
時は37歳位だったと思う。書いて書いて書きまくった。アデイ onlineが閉鎖されるまでの2年ちょっとの間に80本以上の映画を取り上げて、その実自分のことを書きつづった。
自分でも面白いなと思うのが、書いているうちに、段々「パヨク」という自分のアイデンティティへの疑念が生まれたことだった。あれぇ?自分って、思想的に左寄りの価値観で困ったな、ということを書いていたはずなのに、時にはそんな思想を与えた親への恨みが見えたり、そもそも真っ当に生きている人への憧れと恨み(後で分かったが、私の持つ発達障害とも関連しているんだろう)、そして全く関係ない罪悪感が浮かんで来たりして、自分の中って何て歪んでて醜いんだろう…と思うようになった。
私の問題は左翼思想とか関係ない…。
noteで映画評を書くようになってからはもっとそう思うようになってきた(もうすぐ100回になる)。
私の場合、ゲイであるということが書くアイデンティティの柱になるのかなと思っていたのに、書いているうちに、ゲイの部分がどんどん小さくなっていく感じがした。
もはやゲイ映画の映画評をゲイの観点から書くのは難しい。実生活の方で、異文化交際ゲイとしての経験値がものすごく上がったこともあり、ゲイのロマンス映画には益々きゅんと来なくなっているせいだろうか。ゲイならではの視点に関しては、他の方の方が読んでいて面白い。
ホラー映画の評に向いているという助言もあり、ホラー映画メインで考えることに決めたのだが、ホラーそのものというよりは、映画に限らず、私は家族の中のぐちゃぐちゃにものすごく惹かれていることに気がついた。
自分の家が悪くない状態だったにも関わらず、いやむしろ自分は安全圏だったからこそ惹かれるのだろうか?何らかのトラウマはあるのだろうか?それにしても毎晩凶悪犯罪動画の家族の事情を聴いてワクワクしている私って、何て趣味悪くて最高なんだろう…。そうか、自分は元々家族ものに惹かれていたんだ、だから『ポルターガイスト』や『エクソシスト』に惹かれ、『東海道四谷怪談』や『ボイス』のような女幽霊うらめしやものや、妖怪と人間の悲恋みたいなもの(『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』とか)に惹かれないのか…。
これも、本書の言葉で言うなら「自分の好きなものについての過去の認識を訂正し、現在に繋いだ」ことになるのだろう。
そもそも映画評書かせてもらう直前には、実はアメバブログをやろうとしていた。そこで最初に選んだ内容は、何と安倍政権についての認識の変化についてだったと思う(もう行方不明だが)。なぜそれを選んだのだろう。自分をそうやって「訂正」したかったのだろうと思う。
冒頭で触れた先生は、自身は時代が変わる節目を察知して「思想転向」したんだと語ってくだすったが、私から見ると、彼の本筋は全くぶれていない。これはつまり、先生がご自分の信念をある時点で華麗に「訂正」したからだと思う。
同時期お世話になった別の先生が左翼的な「ぶれなさ」を発揮されて来た様子と比較すると、色々と考えさせられる。でも、あちらの先生でさえ、訂正したことが無い、ということはあるまい。
『欲望問題』も訂正の本だ。ある人にはあれは「思想転向」に見えるらしい。私もそう思っていたのだが、今は「訂正」の方がしっくりくる。人は老いるし変わる。変わり続ける連続性という矛盾した何かがあるから人間でいられる。それを「メタ情報」として本書は捉えている。俯瞰する力なのかな。
「対話をしなければ」と言っている割にご本人が対話向きに見えない人がいる。或いは、「信者」に囲まれて雁字搦めになっているのに気がついていないのかもしれないし、全肯定してくれる「信者」だけでよしとしているのかもしれない。それは知的怠惰だけど、生きることには向いている。
或いはもっと先に行ってしまっているのか。
でも訂正は大変だ。つらい。かなり苦しい。自分で過去の自分に喧嘩を売り、切り付け、一部は現在の自分に統合させたり、統合できない部分を切り離したり、或いはかつて切り離したものを再統合したりすることだからだ。血まみれだし、ちゃんとできていなければ直ぐにばれてしまう。
東浩紀は「じつは・・・だった」と再発見することこそが訂正の力だとしているが、この発想は私にはとってもしっくりくる。なぜなら私もそうして来たから。未知のこと(≒自分)に続く新しいドアが開かれるたび、世界が変異して来たし毎回つらかった。でもその後、私なりに変異する世界を楽しもうとしてきた。そういう体力は誰にでもあるわけではない。私は例外的にそれに耐性がある…そういう風に自分を訂正して来た。
成功したか、充分であったかは分からないが「人に言われたことを数年~10年かけて考える」という不器用で要領の悪いやり方で、自分なりに「訂正」をして来たつもりだ。
一方、頑なに訂正をしないぞと思っている人を相手にすると、この人はどこかの部分がオープンではないぞと察知できるのだ。大概それはその人の怒りや恨みに根差しているからそう簡単には変わらない。本人は意識していないのだと思うが、相手が親しい相手であれば、私にはその態度が、お前なんかお前なんか絶対に私の経験とは相容れないんだ、という棘として体感される。ふとした瞬間にそれが出て来る。仕方がないことだ。私だって棘だらけだしな。
本書は言っている。「私はあなたと絶対分かり合えない」ことを了解し、そのやり取りの中で自分を訂正する。そして、相手が私の「訂正」を見つけて、私の連続性を再発見してくれたら素晴らしいじゃないか。人と繋がっているというのはそういうこと。「余白」の部分があるから繋がっていられる。人となりを知っていること、と言い換えてもいい。確かに、頑なに意見を変えたくなさそうな人の意外な一面を見ると、はっとする。その人のイメージが急激に訂正されるのだ。
今の多くの人にとっては、訂正するなんて節操がない、自己というのは絶対変わらないんだという発想の方が真実なのかもしれない。が、アメリカで顕著なそのアイデンティティー政治的な発想は、彼ら自身、本当は信じていないのかもしれないと考えたらどうだろう。そういう虚構を一旦使って喧々諤々にやり合うんだ、という物語を演じているのだ、とアメリカの様相を捉えたら。
するとアメリカの理念的対立も、今までの歴史の一部であり、民主主義の在り様そのものなんだという気がしてくる。ごく最近のアメリカのホラー映画は、一時的に「ソーシャルスリラー」と呼ばれるようなアイデンティティー政治丸出しの作品を連発したが、また変わって来た。節操のないマーケティングだなと私は思うのだが、同時にこれも「訂正」の一つなのだと俯瞰したい。トレンドを追う中で、前の時代の作品や風潮をさり気なく訂正していく。ブラムハウス・プロダクションはなかなかよくやっているのだ。
そういう風に考えてみる。その方が楽しいじゃないか。私はそう思う。
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