ホラーの役割

ホラー好きとしては、上記の記事が気になった。元の記事も読んだが、ホラーというジャンルを使ってえげつない腹いせをすることは、ジャンル自体がそういう傾向を持っているので、別にやってもいいと思う。先月長々と考えた結果、ホラーというジャンルは根本的に、本質的に差別的なものを持っていて、我々は迂回的に差別を娯楽として楽しんでいるのだという結論に至った。

敢えてこう考えたのは、自分自身が「差別する人」だと言われたくないと思っていることが恥ずかしいなと思うようになったから。それはホラーが教えていることとまるっきり違う態度である。差別する人だと思われたっていいじゃないか、と自分に言い聞かせるのがホラー・プライドであろう。

ホラーは、確かに差別的な考えを前提にしている一方で、自分の悪い感情から目を逸らすな、自覚的であれと示唆している。悪い感情を扱うものだからだ。スティーブン・キングやギジェルモ・デル・トロ、川松尚良のように、多くのホラー作家がホラーの物語に慰めを見出し、自らもホラー作家になったと語っているが、彼らは自分の中にある悪い感情をそのように対処しているのだと思う。ホラーファンである私は、慰めを見出す形でホラーに関わっているわけではないから、彼らとはスタンスが異なる。

元の記事にあるような、実際の人物を惨殺することを物語に織り込むこと自体は、えげつないことだがホラーとしては許容されるべきだと思う。それを本人が読むことはつらいと思うし、その点において大いに非難されるべきだとも思う。だが、そのようなことが称賛されるのだとしたら、その状況こそが恐ろしい。ホラーだ。しかも現実に起こっているわけで、何かがおかしいと気が付かないものだろうか。常識はどこに行ってしまったのだろう。

もう一つ私が理解できないのは、JKローリングをキャンセルするのに、作品の方は全く問題なく映画化されているし、ハリーポッターのプレミアも作者抜きで行われたこと。何かがおかしいと思わないんだろうか。

ホラーは、自分のやっていることに自覚的であれと教え、そのことを忘れた者には破滅がやってくるとも教えている。ソーシャルスリラー的な、「あいつら、ざまあみろ」だけでは済まないのだ。また、ホラーとは抑圧された者の帰還であるとロビン・ウッドは論じたし、彼自身は、社会の秩序というものを抑圧的だと考えていたのだと思う。それに対して攻撃を仕掛けるということは、カウンター・カルチャー的な快楽はもたらすものの、本当に社会が脅かされたら、高見の見物をしているだけでは済まなくなる。「社会によって生かされている自分」という都合の悪い自分を自覚して、引き受けることについて、彼自身がどう考えていたのかは分からない。が、彼らこそ、社会の秩序が壊れたら真っ先に死んでしまうだろう。

元の記事にあるホラー作家が、自分のしていることに自覚的であることを祈るばかりだ。そうでなければ破滅が来てしまうし、作家が今手にしているもの全てを失ってしまうかもしれない。そうなってほしくない。あなたがモンスターになってどうするんだ。モンスターを飼い慣らす日が来てほしいが、おそらく来ないだろうという気がするし、別のモンスター、特に自分が知らずに抑圧してしまった者たちの帰還を目にしたとき、どう思うのだろう。

ということを考えてしまった。

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