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竹美映画評31 永遠の悪役を引き受けたドイツ『コリーニ事件』(ドイツ、“Der Fall Collini”、2019年)

映画館再開に際し、かなり久々のドイツ映画鑑賞を選びました。観終わって、「わーーー映画を観たぁあああ」という感慨でいっぱいになった。名作です。

トルコ系の血を引く若い弁護士ライネンは、初仕事としてある殺人事件の国選弁護人になる。殺害されたのは、偶然にも自ら父のように慕っており世話になった大企業の社長、マイヤー。殺したのはイタリア出身の男、コリーニ。黙秘を続けるコリーニの有罪は確実、容易い裁判のように見えたが、コリーニの過去を調べるうちに、全く予想もしなかったマイヤーの過去が浮かび上がってくる。

逆転法廷劇としても面白いし、ドイツの恥部であるナチズムの過去を、トルコ系の弁護士が、これまた移民出身国として位置付けられ尚且つ三国同盟だった「イタリア」を通じて見ていくというのが面白かった。ゲーテも憧れた南の地であり、ミヒャエル・エンデもそこに住んで『モモ』を書いたイタリア。戦後の西ドイツ経済はトルコや南欧からの移民が支えた。同作でもピザ屋が出てくるし、イタリア語しか話さない店主が出てくる。また、ライネンの母はトルコ人だが、出奔した父親はドイツ人。父は何やら政治活動のために家族を捨てた(戦後日本にもそういう人が沢山いた)左翼の感じがある。

コリーニの弁護をしながら過去を探る主人公ライネンは、形としてはマイヤー批判の立場になってしまう。そしてマイヤーの家族からは「あなたはマイヤーの支援が無かったら今ケバブ屋をやってただろう」と罵倒される。うわーそれ言うかって言う場面だけど、人は、怒ったらそこらへんに落ちてる「サベツの石」を投げ付けるのだ。そういうもの。私も経験あるもん。言っちゃいけないから、相手の一番聞きたくないことを言いたくなるっていうダメさが普遍的だと教えている。

月並みな感想だが、国家が個々人を守る代わりに個々人に負わせている責務と罪は、個々人がどうやって償うことができるのだろうか。コリーニの記憶の中にあるマイヤーの最期の仕草は、ドイツ人としての集合的トラウマを表していると思う。

最後の方で「悪役」になった人物のセリフも重かった。「1968年当時のドイツの状況を知っているのかね!?」。そこら中に戦争犯罪に加担した人達が生き残っている状況で、どっかで線引きをしなければいけなかった。日本と違ってドイツは「ずっと罰を受ける」ことを引き受ける代わりに、主権国家を維持することを選び、経済発展も実現した。或いはその道しかなかったか。米ソは、ドイツをこれ幸いと分割して欧州の地政学的勢力図を書き換えつつ(それで内心ホッとした国もあるだろう)、軍事拠点として利用した。そして、ホロコーストという壮大な失敗を罪として背負ったドイツのおかげで、ある意味人権思想をベースにした欧州連合が育ったのかもしれない。考えたくはないが、ドイツの振る舞い方によっては、今よりひどい人種主義の横行する世界が続いていたかもしれない。米国のユダヤ人は陰謀論者にはすこぶる評判が悪いが、ユダヤ人はじめ非主流派白人が作った戦後のハリウッド映画が未だにナチズムを悪として描き続けているのも、抑止効果なのかもしれん。

そして、ナチズムと並ぶ人類思想上の大失敗、共産主義の大失敗から我々が何を学んだのかは今もって全く分かっていないのだが…まだ時間がかかるのだろう。

ナチズムが「許される」映画が作られることは無い。本作も許してはいない。「私も祖父と同じなの?」「君は君だ」。これは、EUの勝ち組国家である現代ドイツを共に生きる移民の子からしか言えないドイツ人への励ましと戒めだろう。

他方で日本は、一定以上の厳しい罰を受けること無く(原爆である程度チャラになった)、と同時に主権国家としての権利を一部停止して70年以上が過ぎた。戦後の新しい価値観を歓迎する木下恵介作品的な明るい映画が日本を慰め、戦争のことを忘れさせようとしたのかもしれない。

個々人の体験に目と耳を向け、美談にすることなく、その状況について謙虚に考えること。私自身、東アジア地域の研究に2000年代に関わったので、東アジアの歴史認識を巡る状況変化についてはサヨク学生として眺め、答えを出せてはいない。でも、空襲や原爆や戦場で生きて死んだ人々の物語に共鳴できる日本の我々ならば、周辺の国で起きた小さい出来事にだって想像力を巡らすことができるはず。そしてそれ以上のことに手を出さない方が健康的でいられる。国家や体制は、個々人が同調してくれることで本当の力を発揮する。そして、国家が本気で個々人に命令すれば、我々はそこから逃げる事はできないのだ。

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