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アデイonline再掲シリーズ第九弾 ダークヒロインの誕生 「ザ・マミー」(”Vuelven”、2017年、メキシコ)

ホラー映画の中で、「ホラー描写の方が現実の描写よりまし」という種類の映画がある。どうやらスペイン語圏…メキシコか?では、そういうものが好かれるのではないかと思われる。

この映画の監督さん、イッサ・ロペス(Issa Lopez)氏については本作ですっかり気に入ってしまった。5月のテレワーク期間中、朝方眠れなかったときにIssa Lopez氏の最新作についてのニュースをTwitterで見つけたので、ちょっと調べて書いたのが下記の記事:

やはり、上記の新作についても、幽霊や魔女よりも恐ろしい、貧しい少女たちの心に眠る悲惨な現実をホラーの物語として語り継ごうとしている。今回の『ザ・マミー』は、ギャングが横行する街で、騎士団として覚醒した親を亡くした子供たちの物語。2019年に観たホラーの中では抜群によかった。

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2018年の2月8日の朝までは、私は遅かれ早かれ彼氏と共にメキシコに移住するんだわと思い込んでたんだけど…若干ショックな形で関係が終了し、夢破れてオバジあり。あとは大酒、焼け野が原。


でもね、2019年の今、結局それでよかったんじゃないかなと思う。自分の失態は棚に上げ、「どうして私のことを愛さなかったのか」などと悶えながら、さっさとインドに鞍替えした節操なんかない私の転身に、周りの皆は呆れつつもホッとしたはずよ。


外国の人と付き合うと、その国の映画・文学・お祭り・食べ物・衣服については興味も出るし、知ってしまうじゃない。そんなわけで、あんまり馴染みの無かったメキシコ文学と映画を2年ほどの間に色々見てみると…一種独特ね。陽気なのに目が暗い。男性の文化と女性の文化でもだいぶ違うんじゃないかとは思うけれども、オクタビオ・パス「孤独の迷宮」(…読破できなかったが)を読んでも、特に男性には精神的な引きこもり傾向を感じる。もうちょっと読みやすい、カルロス・フェンテス「老いぼれグリンゴ」、ファン・ルルフォ「ペドロ・パラモ」「燃える平原」などのマチズモの物語や幻想小説を読むにつけ、不安や悩みを外に発散するタイプの社会ではないんだと思う。やっぱり私は共に生きていくのは無理だったんだろう。落ち込んでいても陽気で、いつも静かに目が燃えているメキシコ人…個々人のキャラクターを超えた歴史的個性に私は随分前に降参していた。


そんなこと言って色んなことを肥やしにするのが私だよイヒヒヒヒ


さて今回は、割と名作揃いの21世紀メキシコホラーの中でも突出した面白さと恐怖、そして意外にもダークヒーロー映画として質の高い「ザ・マミー」。ただ、私好みの厨二ヒーロー誕生…と言ってしまうにはあまりに過酷な物語だった。


麻薬戦争により、2006年以降十数万人が亡くなり、数万人が失踪したメキシコで、行方不明になった母の帰りを待つ少女エストレジャは、何の気なしに教師がくれた三つのチョークに願いをかける。第1の願い、ママを呼び戻すことを願ったときから、亡霊に付きまとわれる羽目に。一方、親を殺され近所で野宿する幼い少年達と行動を共にするうち、ギャングに命を狙われることになる。


陽気なようでいて時折極端に暗い瞳を見せるメキシコ映画は観るだけでぐったりする。麻薬戦争が終わらない原因を作り出しているお隣の国では、昨今メキシコは怖い場所だと描きたがっているが、メキシコで暮らさないといけない人にとっては全く以てナンセンスに見えるだろう。今年のオスカー外国語映画賞受賞作「ROMA」には出て来なかったが、国境の反対側のメキシコでもやはり、ドラマであれ、ホラーであれ、社会の厳しさや凶暴さ、暗さを描いているってことは、元々文化的に激しいものがあるにせよ、やっぱり殺伐とした社会状況なのだと思う。


メキシコホラーの名作と言えば、メキシコが生んだデブクリエイターの聖人、ギジェルモ・デル・トロ監督の「パンズ・ラビリンス」。あちらはスペイン内戦の中で苦しい現実から逃避する少女が、大人には見えない魔法を体験する物語だった。今度のは、現在もなお続くメキシコ社会の荒廃をバックに、子供達が、まるで騎士団のようにギャングに立ち向かっていく…と言うよりも、そうせざるを得ない逆境を、子供を主人公にすることで浮き彫りにした子供だからセリフが却って壮絶だし、言葉は多くない分、目で殺してくるのよ…なりたくないのに大人になってしまった子供の目。警察も大人も信用しない。ギャングに子供時代を奪われると、それは呪いのように子供達に伝染し、新たなギャング生産装置になってしまう。エストレジャと行動を共にする少年シャイネの目は日本のアニメ「サスケ」とか思い出した。冒頭で立小便するギャングから銃とスマフォを抜き取り、銃口を向ける。子供が銃を持って自衛しなきゃいけない上、ギャング達も容赦なく子供たちを撃ち殺す。どうしてそんなに殺さなきゃいけないんだろう。麻薬取引に関係ない人まで死んでいる辺り、もはや、ギャングの根性試しみたいな形で殺戮や死体の蹂躙が行われているのか。子供たちの台詞で空想として語られているギャングの「儀式」は、現実にかなり近いことが起きているのではないかと思わせる余地が恐ろしい。「メキシコ・オブ・デス」というオムニバスホラー映画の最初のエピソード「ツォンパントリ」でギャングのイニシエーションが描かれているのに繋がってしまった。それに、「あそこはすごく安いお金で人殺しを雇える国なんだ」とね、私は直接聴いたことがあるのよ。嘘じゃないんだと思う。


本作、ホラー映画ではあるんだけど、ドラマの部分が重すぎる。ギャングが跋扈する普通の世界に救いがなさ過ぎるため、ホラー描写の方がほっとするという逆説も興味深い。冒頭、教師が子供達にファンタジーを書かせようとするんだけど、教師は空想に逃避できても、子供達は逃げられない。子供達は空想の中で恐れを知らぬトラの物語を語るのだが、そのトラが戦う相手は、具体的な名前と顔を持つギャングなのだ。ホラーとしては、死者と生者が隣り合って暮らしているというメキシコ的なホラー感覚もいい味を出している。メキシコの死者たちは、エストレジャに復讐と正義を要請する。だが、ホラー描写を全部抜いてしまうと、最後にエストレジャが遺体の隠し場所を見つけたことは偶然なのだ。偶然起きている現実の出来事にホラー描写を載せる。この描き方は、「永遠の子供たち」「アザーズ」「パンズ・ラビリンス」のようなスペイン語圏ホラーの十八番で、怖いというよりも哀しくなり、その先に起きることは悲惨でも救済なのだと思う。


こういう物語は、実際の戦乱や悲惨を防ぎはしない。現実の方がひどいんだ。それを分かっている少年シャイネの「願い事なんて存在しないんだ」という吐露に対し、「私達はこんな国の王様であり、恐れを知らぬトラであり、王子であり、戦士なのだ」と応えるラストのエストレジャの悲壮さ。女の子が、ギャング行為に走りがちな男の子を制する物語である点も面白いと思うし、「皆はこう呼んだ、「鋼鉄ジーグ」」以来、私の好きな根暗ヒーロー映画の本当の苦しさと高潔さに触れ、新たなメキシコホラー作家の誕生に戦慄したわ。

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