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病む都会人、狂う田舎共同体

上記のツイートは、ホラー映画の核心をついていると思った。基本的に映画は都会の人が都会の人のために作るものであるが故に、田舎を集合体として捉え、それゆえの不気味さを描き出す。しかし、都会人集合体としての怖さや気味悪さはあまり意識もされないし、描かれていない気がする。都会の人の場合は、個別的な病として描き、我々もそう読んでしまいがちだ。

アメリカ映画に出てくる、田舎に対する蔑視感はかなり強い。私の作品選びの問題なのか、田舎村落共同体の中に個別的な美や正義を見出す作品が非常に少ない。特にホラーの場合は、田舎を戯画化した方が面白くなるので益々個性が分からなくなってしまう。

『コールドマウンテン』は歴史物の形をとっているものの、文明の進んだ場所から眼差した田舎の狂気がハッキリ出ている。

都会から来たエイダ→山育ちのルビー→そこら辺のごろつき→更に奥地のイカレた一家、という知性の傾斜が見える。エイダとルビーの住む集落以外でまともに見えるのは、山奥に一人で住み、田舎の狂気に疲れ果てたインマンを助ける老婆のみ。彼女とて内面がよく分からない。同作はインマンとエイダが、様々な試練を超えて宗教的に清い姿で結婚という形で結合する(性行為に至る直前にちゃんとセリフで、結婚しますと三回言っているのでセーフ)話なので、試練の設定として、南部の田舎の狂気も垣間見える仕組み。

余談だけど、同作はそれまでのアメリカ的に正しい物語だった。イラク戦争の頃の作品で、『アメリカらしさ』を強調したかったのだろう。その頃の白いアメリカの秩序感は、その後どんどん支持を失っていき、アイデンティティポリティクスの前で、もはや何がアメリカらしいのかすら分からない状態になった。もはや『ヒルビリーエレジー』じゃ納得しないんでしょ。

アメリカのホラー映画は、繰り返し、都会モノが田舎に行ったら殺されたという映画を作り続けている。『タッカーとデイル 史上最悪にツイてないヤツら』はそれを更に一回転させている。が、ある人物の狂気を個別的な病だとしつつも、結局、田舎の狂気がおかしなことをさせるのだという側面も否定はしていないように読めてしまう。

やっぱり、映画を楽しむのは都会、または、ある程度文明化された田舎の人間だからなのだろう。『There's Someone Inside Your House』は、文明化されてはいる空間である田舎街の殺人鬼を描いているが、当然、個別の病として犯人像を取り出している。描かれ方が都会と同じなのだ。アメリカの田舎町空間は都会と連続はしていて、最後に若者が街の外に出て行くことが多いため、作り手は都会から田舎町を見ていることが感じられる。

ちなみに本作の犯人の病はとても今っぽくて、いかに人種の問題が扱いにくいか分かる気がした。と同時に、人種やセクシャリティ、ジェンダーなどを重視するアイデンティティポリティクスが救えないものが見えた気がして、外国人としてどう考えたらいいのか戸惑う。

日本映画は、その意味では都会→文明化された田舎町→奥地、の段階をもたず、都会と田舎、しかないのかも。『カルメン故郷に帰る』はハッキリと東京と田舎を対立させていた。数々の金田一シリーズ作品を観ると、田舎の土俗的とも言える集団的狂気と、個別の病が混ざっているような気もするため、田舎への目線はよく分からない。日本映画に関しては自分でもまだうまく整理できていない気がする。今はどうだろう。ネット怪談を読む限り、今はハッキリと、都会から見た田舎特有の狂気というものに対する興味と恐れを感じさせる話がたくさん作られている。興味と恐れが、祟り神のような得体の知れない恐るべき存在への畏怖として出ている気がする。また、そこに、日本的で非仏教的な発想への回帰も感じる。そうなると『来る。』は、都会の進んでるような人の集団的狂気みたいなものに少し迫っていたホラー作品ということになるか。

他方、都会のど真ん中の話だと、やっぱり、家の中に誰かが侵入しているのではないかという恐怖がメインだ。ある地域の住民がおかしい、という話も、今度は部落差別の焼き直しとして復活している気もする。『不安の種』はそのように読めるのかも。が、それもまた地方の田舎町という田舎性を付与されている。

ホラー作品が都会的な集団狂気を扱うとしたら、カルトの描写があるかもしれない。ドラマ『地獄が呼んでいる』は都市空間を舞台にどんどん拡大するイカレ現象を描き出している。都市だから起こりうるというふうに読める。

新真理会の本部の建物がなんだか北朝鮮っぽいこと(というか、南北朝鮮に共通するセンスなのかもな、あの馬鹿デカさ)や、教団幹部の着ているジャケットが韓国の政党の人たちが着ているものに似ている点などなかなか面白いが、同作の中で描かれていることは、既に現実に起こっているように思う。やじりの様子はキャンセルカルチャーのメタファーっていうかそのまんまではなかろうか。

映画の中の描写は、我々がある空間を思い浮かべるときの色眼鏡と繋がっている。いやいや、こんなこと考えるなんてサベツだ、いけないことだ、というふうに自主検閲をしても、どうしても出てきてしまう。それならば、思い切って描いてしまう方がいいのではあるまいか。そう思うようになってきた。

『地獄が呼んでいる』のミン弁護士のセリフ、『私の知っていた世界が消えて行くみたいな気がするの』は、それまでの世界が良かった、と言っているわけではなくて、制御不能の状態になりつつあることを察知した不安の表明だ。そのセリフが一番ゾッとした。画面のこちら側もそうなっているから。





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