竹美映画評⑧ ヴィランもまた、一種のヒーローなのだ 「ジョーカー」("JOKER"、2019年、アメリカ)
ツイッターで「JOKER観に行ける層は「俺もJOKERだ」とか心配する必要はなく、JOKERを観に行けない層こそ「俺もJOKER」と言いそう」みたいなことを読んで、結構納得しちゃったわ。私も、低賃金なので、正直毎月1回映画館に行くかどうかという感じになっている。今回は「ホテル・ムンバイ」との間で非常ーに迷った。
そう言えば「俺はJOKER」とか歌ってたKATーTUNメンバー…本当に「ぎりぎりでいつも生きていたいから嗚呼」「リアルを手に入れるんだ」って歌詞の通り、リアルに大麻を入手して人生がぎりぎりになっているね。言霊って馬鹿にできないわね。くわばらくわばら。
さて、本作、既に色んな人が論じているのだが、私ねえ…本作は「シン・ゴジラ」以来の「繋がれなかった映画」で終りそう。
私には、本作はDCコミックの中でも傑出した悪役であるジョーカーは、元はこーんな人だったりして~というジョークを映画にしたら結構しゃれにならんかった、という作品と見えた。要するに二次創作的な感じがしたのね。「私の心の中のJOKER様へ」という題目で、同人誌用に描いたら売れちゃった、みたいな感じかな。
「うだつの上がらないモテない低収入男」勢、日本で言うところの中年童貞層のシンクロ度で言うと、境遇こそ似てるけど、本当にあそこまで心の中で鬼を飼った上で、自分の人格越えた別の者に行きつく人は極わずかと思うの。「鬱屈した男(何故かいつも男)」が、広場や集会所で銃乱射、異教徒や外国人の集まる場所を爆破、みたいな海外でみられる行為や、子供や介護施設入居者、或いはもうただそこを歩いていただけの人を無差別に殺す、またはご近所トラブルから人殺しに至る(そして殺意は否定)、というような日本でも見られるような行為と、本作のジョーカーは根本から違うんではないかって思う。現実に上記のような暴力の暴発まで行ってしまうメカニズムは、私は、①厨二病を劇症化させて空想を現実にする行為(それを裏付ける力は宗教や人種・歴史等の個人を超えた価値ではないかな)と、②「呪い」が発動して精神が鬼と化した案件、のどちらかか、或いは両方が混ざっていると思う。ISIL等の宗教テロ系は前者が強く、「安全神話」の日本で起きる散髪的な衝動殺人は後者じゃないかな。
って軽く言えないけどさ…深刻だから。
そして、アマンがフライングジャットとなるがごとく、アーサーがジョーカーになるプロセスが本当に同じと言えるのか?と考えるべきだと思う。私には、ジョーカーはそういう読み込みを予見した作品のように思える。
他にネットで読んだ意見としては、「我々はマレー・フランクリンの番組で大笑いしてアーサーを嘲笑した観客である」という意見ね。私が本作を見ながら思ったのは、「お笑い」という表現行為は必然的に暴力性や差別性を孕むんだってこと。毒なんだら。
ジョーダン・ピール監督が「アス」「ゲットアウト」で逆説的に描いちゃったように、「お笑い」と「恐怖」は差別(だけではないけれども)というフィルターを通じてみると紙一重の解釈の差から成り立っている。「そんなので笑うなんて、喜ぶなんて、差別よ」という監視センサーがそこら中に張り巡らされており、民度は上がったのかもしれないが、別の面では私達は息が詰まりそうになっている。だから「あの頃はこういうことも言えたからよくなかった/よかった」という形で昔が言及されたりするわけよ。本作の時代設定がそうよね。
そして、ジョーカー(アーサー)自身のやるお笑いパフォーマンスは、最初はほとんど人に笑いを産まない。ところが、何か色々あって吹っ切れて来ると、発作ではない笑いが本人から漏れ始める。そして彼は、テレビに出てくる人をバカにしくさったようなパロディの振る舞いを通じて初めて、私たち観客を「笑わせる」に至る。でも怖い。そして、その後にテレビに出ている自分を夢想するとこなんて、気持ち悪いけど滑稽よね。こちらは笑っていいのか分かんなくなるの。
状況から見て、人生全体にふてくされても仕方ないと思えるような状況でアーサーは生きているんだけれども、何だか戯画的。様々な社会的スキルの低さと同時に、彼が完全に欠いていたものは、自分を俯瞰する目線なのかもしれないね。自分を受け入れる余裕も持てず、自分を笑い飛ばす程の知性にも至れなかったこと。それは他人からのケアの有無や質の連鎖ではあるが、彼は、JOKERの人格を自分の中に生み出し、スーパーヒーローと同格の存在になったのかもしれない。「フライング・ジャット」の神聖さ、「皆はこう呼んだ「鋼鉄ジーグ」」の無私とかと同格。もはや普通の人間ではないので、何もかもが滑稽にも見えるだろう。微笑みではなく哄笑が漏れるであろう。
その形で彼は救われたのね。
「ヘレディタリー」のラストと似ているかもしれない。エンディングの音楽には安堵が感じられた。
…書いてみると意外と色んなこと考えてたのね私。
自分自身のことに引きつけて考えるとね…あの一人でぶつぶつ言いながら、泣きたい気持ちなのに笑いが出て来ちゃって…というあの感じ、私も去年心が参っちゃってたとき、似た感じのことしてたなぁって思い出した。あの心境は、(演技の意図とかは分からないけれど)多分、「もうこの世でやりたいことが何も無いしさっさと消えたいと思う一方、何故か活き活きしている自分」が可笑しくなっちゃたんじゃないかな。
私はジョーカー程の高い次元の人格には至っておらず相変わらず愚鈍だが、何となくああいう「吹っ切れちゃった狂気」みたいなものに、自分が向かっているんじゃないかという妄想を持っている。でもそうなったときは必ず、ダークヒーローが私の前に現れ、罪を指弾するだろう。でもその時には、指弾されることを待ち望んでいるのだ。本望だろう。ほーらキタキタって笑いが出てしまう。だってもう、どんな過去があったのかも忘れ、本当の自分はとっくに滅びていて、後は退屈しのぎに遊びたい別の高次の人格だけがそこにいるんだから。それがヒーローの世界なのだと思う。
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