呪いを研究したい

最近、友達と1990年頃の日本映画「超少女REIKO」を観て、「この時代の子供向けの何でも無いと思われていた漫画アニメコンテンツって…大事なこと言ってるわ…」と二人で震え上がったの。「幽霊より生きてる人間が怖い」とはよく言うが、本当にその通りだなと思う。

私も、数年前に仕事で不具合が発覚て、本質的でなくどうでもいいことで、2時間かけてわずか30分のよく分からない打ち合わせに呼び出されたりして本当に嫌だったんだけど。でもある日突然終わった。どうしてだろうと思ってたら…先方の担当者が心を病んでそれから半年くらい会社来られなくなったの…そのときよ、私に呪いの力があると知ったのは…あたしは元々暴力性を持っているし、恨む力が人より強くて執念深いから…生霊出したんだと思うわ…昔から「フェノミナ」のジェニファー・コネリー、「キャリー」のシシー・スペイセク、「エスパー魔美」の佐倉魔美に憧れていた私、念願かなった瞬間じゃん…ゴゴゴゴゴ…願いは叶う(「バーフバリ 王の凱旋完全版」)
もうその方は恢復されたそうです…ってかその人が病んだら私への責め立ても止めるってどんだけポリシー無いわけ?

さて、ソ連崩壊とマルキシズムの敗北を受けて、「大きな物語の終焉」が言われました(信じなかった残党がカルチュラル・スタディーズ等に逃げた)。そして、ハンチントン『文明の衝突』の描く通り、2001年の9.11テロ以降は「中くらいの物語の戦争」の時代が来たのねえと皆納得した。ハンチントンおじさん、当てたわね。

宗教は「元々まあまあ大きな物語」で、それを元に人類は何度か戦争をしてきた。宗教を代替して一時期、別の形の殺戮と破壊に人類をいざなったのがマルキシズムの神話だったのかな。宗教は別格だけども、今や、人種、セクシュアリティ、人権、文化の平等などを巡って「大きな物語」が生み出した「中規模物語」もまた、今盛んに地球人の凶暴性を解き放つ役割を果たしている。

「中規模の物語」は、宗教や、マルキシズム程の神がかったクオリティは期待できず、各論において付け入るすきがある。それが無いのは神話か宗教。宗教は既に火種を生んでいるが、まだ「文明圏」がそれぞれ持っている「神話」同士は戦争していないように見える。イスラム教徒の動きはどうだろう、ジハードとは言いながらも、厨二病をこじらせてたくそ真面目な神学生が、悪い人らに煽られてIS作っちゃったりしたんだろうと私は思う。だから、あの種のテロは「抑圧されるイスラム教徒」という物語を利用して成り立っている凶暴性の発揮ではあるものの、「神話」レベルの暴発と挑戦に続く衝突の始まりなのかは、私はちょっと分からない。もしそうならアルマゲドンが来るけど、散発的なテロとして起きていることはどういう意味があるのか。アルマゲドンが発生してからでなければ何とも言えんのだよね…

もーっとちっさい話すると、日本の「LGBT応仁の乱」と言うべき状況は「中くらいの物語」の代理戦争だわね。マルキシズムの生き残りである多文化主義経由の左的な「抑圧と差別からの反抗」物語と、それに反発する形で形成されてきた「右」的な「現実適応リアリスト」物語が正面衝突していると見える。双方に「正しさ」があるということは、どっちも完璧には程遠い、人間らしいポンコツ物語であるのだろう。「神話」みが足りないのよ。

この10年くらいだろうか、「物語」という言葉をすごくよく耳にするようになったし、ここ2年程は自分でもよく考えるようになった。私は、「左的な物語」には馴染みやすかったが、逆に、「右的な物語」に馴染みづらい。それを「認知の歪み」という言葉で言ってのける層が2000年付近からはっきり出現した。彼らは、社会工学と社会心理学と、地政学というツールを使って世界を観る。もはや、「右か左か」という軸も有効ではない。日本の優れた社会アニメ「PSYCHO-PASS」はそこを突いた作品で、「心に悪い感情が浮かぶ強度」を客観的に測定し、規定値以上になった人間を強制排除(処刑)する社会システムを構築し、極めて安定した世界を展開させている。見た目上、「悪い病巣を早期発見して排除」という仕組みに見えるのだが、その実、「掟に反するものを常に社会から排除する」という人類社会共通の仕組みは変えていない。

それだったら、イラン映画「セールスマン」で描かれた、「社会の安定のために犠牲になっていただく方」達が可視化できるほど数が多い方が、社会全体は安定するという状況とは程度の違いでしかない。「犠牲になっていただく方」を極力減らすのが、西洋の発明した民主主義システムと思われるが、ゼロにならないということ自体が、人類が作り出す社会システムの限界を意味するのかもしれないし、人類という種の業かもしれない。

と言い出すと、「じゃあもう何でもいいよ」みたいに諦めたくなるのだが、地政学大好きな層の人達は、社会の病巣としての少数者をつつき出すのに余念が無く、結構楽しんでいる。ところが、分かっててやってる人っていうのは、やっぱりそれなりの知的レベルに達している人達なのね、でも、その劣化版のような人達も結構お元気で、彼らが所謂「ネトウヨ」に合流して、「右」陣営はそれなりの活況を呈している。「ネトウヨ」は、2000年代初頭にはそれなりに新鮮で、面白かったし、私も自らの「物語受容装置」が非常に痛んだが、その痛みから逃げないことで、大変勉強になった。
だが、「劣化ネトウヨ」層は、ツイッター上では匿名の低級霊みたいに振る舞っている。あれはもはや呪い。同じ事実を見ても、違った解釈があるのだということを認められないなら、「パヨク」と同じ程度に「認知が歪んでいる」。物語の戦争には止めどきというものが無いのでずっと炎上し続けている。そして互いに恨みを溜めこむのだ。

それって…誰のせいなんだろうね…

口汚い言葉の応酬は段々呪いと恨みを孕んでくる。昨今流行の宗教テロだって、あれは何かの呪いに取りつかれた者が周囲に煽られて凶行に出ると解釈してもあんまり間違ってないと思う。「同性愛者、中絶賛成者、社会主義者」を同レベルに「悪」と感じるアメリカの「宗教的意識高い系」の本音物語は、「みんなに平等に機会が与えられるべき」というタテマエの物語と戦争をしたがっているように見える。そしてそれを煽っている者が必ずいると考える方が、まだ救いがある。「イスラムは、中国は、欧米は、朝鮮半島は、パヨクは、ウヨクは、やばい、話の通じない完全なる異物である」と宣伝する研究者・専門家達は、知識を売って注目されている。正しい成果なのだと思うし、ビジネスとしてうまく行ってるなら、その人たちの責任とも言えないだろう。しかし、「物語の代理戦争」を煽ってしまうリスクは自覚していただきたい。それは、先の世界を予見する者が背負うべき業だろう。今の時代は、武器商人=死の商人なのだとしたら、「物語の代理戦争」を煽って儲けている人は、呪いの商人だ。もしそうではなく、「いや、自分は呪いなど生まない、それは呪いを勝手に抱くものが悪いのだ」と言い始めた瞬間、あなたもまた、呪い生産システムに取り込まれている。自分の「物語」から一歩も出ないと決め込んでるってことだからね。でもその方が、お金も入るし、味方もいるし、安心だ。地方大学が崩壊して、社会全体が貧困化するに違いないじり貧底辺競争をしている日本において、その選択は責めようがない。

これから「物語」に呑まれようとしている皆さん、もう呑まれてる皆さん、煽っている人を信じてはダメよ。その人が涙を流したり、自己犠牲を口にすればするほど、騙されるのはあなた方。その人が演技してお金を稼いでいる謂わば、キャッチコピーライター・シャーマンじゃないって誰が言えますか。

被差別部落は今存在しないと言われ、寝た子を起こすな理論とは裏腹に、ネット上の怪談話「裏S区」を読めば一目瞭然なように、かつての部落差別は、呪いの血筋というようなオカルティックな意味づけの中に脈々と生き残り、我々の「あの人たちは差別されて当然」という踏みつけ欲を満足させてくれている。昨今の怪談は、差別を肯定するような物語として機能しているのでは…と思ってたけど、日本自体がそういう体質なんじゃないかとも思う。2世代前がひどい差別を受け、それが確実に社会資本のハンディとして作用している以上、差別の問題は終わっていないと思う。でも「差別」という単語を使うと反発されるから、私は違う言い方をするよ。これからオカルト化・スピリチュアル化がもっと進むはずの日本に似合う言葉を使おう。呪い。怨念。祟り。その3つをどうやって解消するか。怨む霊をどうやって成仏させるか。或いは祓うか。日本では成仏のプロセスがしっくり来ると思う。成仏が日本という文明圏の神話の中でどういう役割を果たしているのかをもっと知りたい。社会的和解、という言い方は日本ではあんまり説得力が無い。それはやはり、日本的な「神話」にしっくり来てないから。
日本はそういう意味の「神の国」なのだとだいぶ前に指摘してた本があったね(古田博司『新しい神の国』)。

「超少女REIKO」の中では、生霊が学校を恐怖のどん底に陥れる。そしてその生霊とは、誰しもそう成り得る何かなのだ。そういう憐みと共感を以て、呪いを祓う。そういう象徴的なことを探って行くべきと考えている。なので、民俗学と人類学を勉強することに決めたわよ。方向性が決まって私もすっきりだわ。


…これは私の物語。あなたの物語ではない。ここまで辛抱して読んでくれたあなたに、「ブック・オブ・ライフ」というアニメ映画の最後の台詞「Hey, write your story」という言葉を最後に置いとくわ。

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