又左(前田利家)と藤吉郎の桶狭間の話

『三ツ首語り』
武川佑


 あと一刻もすれば陽が昇る、寅の上刻であった。
 一人の男が土塁に足をかけ、木柵に取りついて闇夜を睨んでいた。
 山が連なる東の空が一筋、薄くなり、数瞬ののち暗がりへ戻る。寄せて返す波のごとく繰り返し、夜は滲みながら明けていく。男は夜の向こうを、見ていた。
 背筋が伸びた、堂々たる美丈夫。六尺はあろうか。まだ若い。錆びた頬当を白い鉢巻でつけ、腹当ては縅糸があちこち切れていた。脚絆は泥に塗れ、左片方しかない籠手は繕いの痕がみすぼらしい。三間半の長鑓は支給品であろう、無骨で飾り気がなかった。
 痛む右目を押して開いた時だった。砦の角に立つ井楼櫓から当番兵の声が降ってきた。
「大高城より松明が動きました。せ、千は下りますまい……」兵の声は震えていた。「渡河を始めるようにて」
 あっという間に砦に音が満ちた。打ち鳴らされる梵鐘。侍大将が兵を急かす金切り声。石や丸太を運ぶ荷車の軋む音、兵の草摺が擦れ合う音。
 来い、と男は念じた。
 ワシが討ってやる。来い。

     一

 永禄二年(1559年)の正月の事。
 目出度い空気の清須城で、男は主君・上総介信長の気に入りの茶坊主を諍いの末斬り捨てた。主は激高し、切腹せよと命じた。当人も腹を切るつもりでいたが、柴田権六勝家と森三左衛門可成の嘆願により、追放と相成った。
 男は上総介信長が大好きだった。恋していたと言ってもいい。そして、愚かであった。
 妻を娶ったばかりで子も腹に居るというのに、何という軽はずみを、と柴田勝家が嘆くと、後悔しておりませぬとにっこり笑ったし、他家の仕官先を探してやると森可成が言ってくれたのも断った。幼い妻は、それが旦那様でございますから、と迎えてくれた。
 斯くして男は牢人となった。清洲城にほど近い熱田神宮の社家に居候し、漢籍を学んだり、得意の鑓の稽古をしたりと、尾張から出ていく気配はなかった。
 男は、荒子城主前田利昌の四男で、孫四郎または又左衛門という。
 利家というのは、のちの名である。
 一年半を経た永禄三年皐月。駿河国主・今川治部大輔義元が自ら二万を超える大軍を率いて、駿府を発ったとの報は尾張を震撼させた。又左衛門は居てもたっても居られず、三間半の鑓を引きずり、質に入れた鎧を借銭して買い戻し、熱田宮司の千秋季忠を訪ねた。参陣を願った又左に、千秋は鷲津砦へ口を利いてくれた。主君の赦しがなければ帰参は叶わぬ。旗本から離れた砦の足軽ならば、何とか潜り込めるとの事だった。又左はそれで満足だった。己の腕ひとつで手柄を立てます、とにっこりまた笑った。
 鷲津砦は、知多半島の付け根、年魚市の干潟に沿って小高い台地に築かれた小さな砦である。五百間(約1キロ)ほど離れた丸根砦とともに、今川方の城、大高城を抑える役目であった。前日、廿八日宵の刻。今川義元が入った沓掛城から先遣隊が出て、大高城に兵糧入れを行わんとし、小競り合いがあった。夜戦を終えた暁闇の鷲津砦は、束の間の眠りについていた。その頃合いを計っての急襲である。
「必ずや義元めが来るぞ」
 又左は東西二つに分かれた東の曲輪で、急斜面を登りくる敵と戦った。
 堅堀の上、木を切って逆茂木とした斜面を、敵が登り始める。逆茂木の一部分が、人が通れるほど薄くなっているのに気づいた。いかん、と柵を乗り越えようとすると、足軽たちに止められた。
「わざと薄くしてあるんです」
「何」
 突き出す根を避け、敵は一箇所に殺到する。声が飛んだ。
「印字打て」
 大小の石が一斉に放たれる。敵の頭上へ雨と降り注ぎ、悲鳴とともに斜面を次々転がり闇に消えていく。興奮した又左は、周囲の足軽兵と肩を叩き合った。なるほどこうして敵を誘い込み、迎え撃つのか。これまでに経験した野良の合戦とは違うと又左は悟った。
「そのまま防げ、逆茂木が破られたら次は丸太木を落とせ、矢は最後まで取っておけ」
 振り返ると、松明を供に持たせ、軍扇を振って命じている男がいた。守護大名斯波氏の一族である飯尾氏の嫡男で、鷲津砦の守将が一人、飯尾隠岐守尚清であった。又左を見つけると、尚清は古式ゆかしい萌黄縅をがちゃがちゃ鳴らし凄んだ。
「寄せ手は朝比奈備中。牢人又左、お主の武勇で一度は防げる。二度までと思うな」
「義元は」
「来るか阿呆。上総介めは籠城。砦は落ちる。皆犬死じゃ」
 尚清は金切り声を上げると、指揮を執るべく隣の隊まで駆けて行った。
 砦は落ちる――。
 麓に展開する敵は千、対してこちらは二百もない。薄明に目を凝らすと、麓までみっしり兵が囲んで、目をやれば西の曲輪は、既に虎口まで押し込まれていた。道が折れる地点で左右の土塁から矢を射かけ、何とか防いでいる。
 隣の丸根砦は籠城せず討って出たため、この時、火の手が上がっていた。焦げた臭いに乗って敵の歓声が轟き、守将の佐久間大学盛重が討たれたとの伝令が曲輪を駆けていく。
 山の稜線からこの日初めて、金色の光が差した。丸根から上がる煙が朝焼けの空に吸い込まれ、干潟から飛び立った無数の千鳥が又左の頭上を舞った。
 絶望的な呟きが零れた。
「我らに死ねと仰るのですか、大将」
 見殺しにすると、仰るのですか。
 抵抗を続ける東の曲輪に、敵は柵を倒す戦法に替えた。熊手や鳶口が横木に駆けられ、声を揃えて引く。こちらも力の限りに抑えるが数の差は埋められぬ。二度、三度。軋んだ音をたてた後、柵は倒れた。勢い余って土塁を転げ落ちた者は残らず串刺しにされた。
 土埃がもうもうと巻き起こる。憤りで眼前が白く眩んだ。
「出る」
 考えるより先に体が動いた。倒れた木柵を飛び越え、背を低くして竪堀を駆け下る。又左どのが出たぞとの歓声を背で聞いた。弓が頬当に当たって弾いた。
 目前に敵鑓組二十人足らず。一年以上ぶりの斬り合いだ。
 繰りだされる長鑓を身を捩って躱し、柄を左手で掴む。肚に力を込めて押し返すと、持ち主が体勢を崩す。左右から援護の長鑓が打ち下ろされるより速く、斜面を滑る。今川方の長鑓二間半。又左が持つ織田の支給鑓は三間半。胴を狙って横に薙ぐ。
「腕に覚えのある奴ぁ、ワシに続け」
 又左は次の敵を見た。砂塵に突っ込み鑓を打ち下ろす。返して隣の兵の胴を斬る。二列奥に隊を率いる侍大将が見えた。あれぞ。地を蹴り、敵列に体ごと当たって侍大将を組み敷き、打刀を抜いて刃を首に当てた。
「周りを見い」
 侍大将は口に泡をためて喚いた。味方で戦っているのは又左一人であった。後ろでは柵が突破され、土塁を敵が乗り越えていく。
「首貰い受けるぞ」
 舌打ちし、柄を逆手に持って満身の力で首と骨を断った。飛沫が朝焼けに散り、顔にかかる。吐く息が熱かった。首と袖印を掴んで、血が滴るまま身を返す。土塁を乗り越えようとした敵の縦隊の後ろから鑓で足を払うと、五人が転げ、逆茂木の根に突っ込んだ。一人は腹を、一人は後頭部と喉を貫かれ、胴巻と小袖が朱に染まる。
「又左どの、櫓が!」
 西の曲輪の井楼櫓で油壷が砕け、火矢が射かけられていた。油と煙の匂いが充満する。あちらの曲輪では飯尾近江守定宗と織田玄蕃が指揮を執っていたはずだ。
 飯尾近江守定宗は織田弾正忠信秀の従兄弟にして、尚清の父であった。津島で上総介信長が女踊りをした際、前野長康らとともに弁慶の装束をして似合うと褒められた男である。又左が熱田宮司・千秋季忠の紹介状を持って鷲津砦を訪れると、慣例を破って受け入れてくれた。また、織田玄蕃は、織田一門の長老格にして信秀亡き後、信長の後見人であった。峻烈な人物が多い織田一族にあって、鷹揚な人だった。
 走りだそうとした又左に、頭上から尚清の怒号が飛んだ。
「二度は防げぬと言うたろう! わしとお主は落ちるぞ」
「お父上を援けぬのか臆病者!」
 又左は怒鳴り返した。残る兵、定宗と玄蕃。見捨てては行けない。
 尚清が持ち盾を担いで斜面を下ってきて、軍配で頭を叩いた。
「上総介が清州城を出たらしい」涙を流して尚清は絶叫した。「どうだ、死ぬ訳にはいかなくなったろう、糞ったれ!」
 息を詰めて尚清を見た。義元と一戦せんと、大将が討って出た。込み上げるものに視界が歪み、嗚咽が漏れた。
「大将、遅うございまする……」
「うつけの心中なぞ誰にも分からぬ」尚清の顔は赤黒く染まっていた。「本戦へは行かぬぞ」
「大将を援けぬと申されるか」
「喧しい。わしが死せば飯尾が絶える。上総介など知った事か」
 西の虎口が突破され、敵が雪崩れ込んだ。すぐに東の曲輪へも来るだろう。一度退けた南の斜面も、十間(約18メートル)まで敵が迫っていた。残った丸太を落とし、残兵を従え、北西の裏手へ走った。三方から敵が迫り来る。尚清の直属と思われる五十余の手勢が決死の覚悟を顔に浮かべ、侍していた。
 これが最後の兵。
「最早これまでである。守将織田玄蕃、飯尾伊豆守の命により、敵中突破し山中へ逃れる」
 下知にすすり泣きが返る。豪族の四男に生まれた又左には、嫡男の尚清にかける慰めなど知らぬ。今すぐ大将の元へ馳せ参じねばとの思いで、鼓動は激しく突き動いていた。
「ワシは大将の元へ参りまする」
「……元より家臣でもない。勝手にせい」
 一隊は、砦北側の裏手門から討って出た。柵を倒して敵の追手を遮り、なお追い来る敵足軽を蹴散らし、一気に砦から逃れた。
 ちらと振り返る。辰の刻(午前8時)、夜は払われた。海風は止み、白雲が巻く空のもと、燃え盛る砦を朝日がぎらぎらと照らしていた。
 最早織田壊滅は決まった。又左は確信した。

     二

 足取りは重かった。馬の嘶き、草摺の音に慌てて道を変えること三度。一刻経とうという頃、慌てて逃れてきたらしい百姓を捕まえ、
「清洲のお殿さまは善照寺砦に入り、さらに進むとの事です」
との話を聞いた。今川義元も沓掛城を出たという。西に進む今川を、南下して討とうというのである。進むとすればより南の、中島砦であろうと思われた。又左が落ちた鷲津砦から直線で半里ほど、平時であれば半刻で辿り着けるが、今川、織田双方が入り乱れるこの地を無事に通り抜けられるかどうか、誰にも知れない。一人は怖いと百姓が震えながら訴えるので、鎧櫃を背負わせ、共に行くことにした。
 又左と百姓は二人、森を北東へ歩きはじめた。汗が流れて小袖を濡らし、鎧の胴と擦れて痛かった。脚絆の糸が切れてずり落ちるが、藪を漕いで進むため脱ぐ訳にもゆかぬ。
 樹冠から光が漏れ落ち、揺れる。山鳥の囀り。白い蝶が陽の中を飛んでゆく。
 視界が眩んで右目を押さえ、木の幹に手をついて大きく喘ぐ。無断で参陣し、何が成せると思うていたか。目の裏に浮かぶ真黒く光る首桶を、又左はかぶりを振って追い払った。
「お侍さま、目が痛みまするか。お怪我を?」
 百姓が恐る恐る聞くのを、首を振って否定する。
 痛むのは、四年前の稲生合戦で受けた矢傷だった。信長と実弟の信勝(信行)が正面から激突した。敵は倍以上、柴田権六勝家はじめ多くの将が信勝側についた。柴田勢は本陣にまで迫り、残るは森三左衛門可成ほか馬廻りだけとなった。信長自らが単騎身を晒し、勝家を一喝して下がらせた。
 又左は。早々に追い散らされ、眼窩真下に矢が刺さったまま、走ることしかできなかった。走って、討った。討ったところで大将の命は守れぬ。矢傷のせいで、右目は黒目が霞みがかり、時々己を責めるかのように痛むようになった。
「……ワシが侍に見えるか」
「お強いのでござりましょう?」百姓は屈託なく答える。「お腰に首級も下げてございます」
 そうだ首級だ。侍大将の首を入れた、血の滴る麻袋を又左は掲げ見た。目の下の痛みが和らぎ、脚に力が戻ってきた。これを持参すれば、必ずや大将もお許し下さる。
「きっとお殿さまがお喜びになります」
「そうだな……そうだ」
 再び歩を進めてほどない、巳の下刻だった。百姓が前方を指さした。
「お侍さま、あちらが手越川にて。先は深田が多く、道を外れては足を取られ進めなくなりまする。川を辿れば中島砦はすぐにござります」
 用心しつつ小山を下る。手越川と、並走する鳴海道の裏道に出た。むっと熱気が又左の体を包み、強い日差しに目が霞んだ。
 陽炎の立つ道を、数人の男が歩いて来るのが見えた。ちぐはぐの具足をつけ、長柄の先に首を下げている。一人がこちらに気づいて、手を大きく振った。中村金右衛門だった。
「又左じゃねえか!」
 又左と同じく、武家の次男、三男から取り立てられた男たちは、討った首級を大将に見せに行くのだと言った。戦況は芳しくなかった。千秋隊が手勢で奇襲を試みるも、鳴海城から出兵した岡部五郎にあらかた討たれ、壊滅したとも知った。
「千秋どのが……大将はどちら」
「この先に布陣してらっしゃる」
 聞くや又左は走り出した。百姓の男が大声で、
「もう帰ってもようござりますか」
と聞くので走りながら振り返り、
「ならん。そこの道祖神の塚にて待っておれ」
と返し、全速力で飛び出す。
 道の両脇は百姓の言った通り、落ち窪んだ沼地だった。葦が風に揺れ、泥水がさざ波だって炎天の陽を返す。真向いから埃と礫を受けながら、又左は乾ききった喉を鳴らして走った。
 大将、ワシはどうすればいいのです。
 大将。
 道を外れた小高い山の裏手に、二千ばかりの軍があった。常の永楽銭旗は竿に巻きつけ、どこの軍か分からぬようにしているが、居並ぶ将の顔は見知ったものだ。鬼瓦の権六、鑓の三左、池田の弟者。背の高い大将は一目で分かる。常の茶筅髷をやめ、油をなでつけた髪に折烏帽子、沢潟縅の鎧に南蛮羅紗の陣羽織を羽織っていた。こちらに気付くと、驚いたように眉を上げた。
「前田又左衛門、推参仕りました」
 熱い地面に膝を折り、額を擦りつけた。追いついた中村金右衛門、木下嘉俊たち八人も又左の横に並んで伏し、持参した首級を置いた。顔に浴びた血と泥が流れて一滴、また一滴と地に落ちた。又左は、じっと地面に汗が吸い込まれていくのを見ていた。
「おけい」
 頭上から降る言葉は唸り声のようだった。
 下馬した大将は、検分役を呼ぼうともせず、弾みをつけてあぜ道の脇へ次々蹴り落とした。又左の前の首が蹴り飛ばされる。我をも忘れ、顔を上げた。気付けば進軍の号令をかけようとした大将の前に立ちはだかり、轡を取っていた。驚いた馬が暴れて立ち上がる。又左、殺される、と誰かが言った。
「鷲津、丸根は落ち申した。織田玄蕃どの、飯尾近江守どの、佐久間大学どの、皆討死し申した」周囲からざわめきが起きた。「大将、何故後詰下さらなかった」
 大将の顔は深い影に沈んでいた。こけた頬。細眉に切れ長の鋭い目を、懐かしいと思い、胸が痺れた。
「又左は斬り捨てられても構いませぬ。何卒清洲へお戻り下され」
 低い声が聞こえた。
「一年半、何をしていた」
「熱田にて千秋殿、松岡殿に教えを請うて漢籍を学び、鑓の稽古をしておりました」
「玄蕃、近江、大学には地獄で詫びる。わしの行く手を遮るな」
 大将は刀の柄に手を伸ばした。周囲の空気が凍りつく。後ろに控えた柴田権六勝家が鬼瓦のような顔に滝汗を浮かべ、「殿」と一声発するのがやっとだった。
 構わず太刀が抜かれる。
 磨き上げられた切っ先が鼻先数寸にあった。目を逸らさず、太刀と大将を真っ直ぐ見た。切っ先が右目の傷に触れる。抉り返すように切っ先が行きつ戻りつし、背骨がぞくりと竦む。又左は大将にだけ聞こえるよう声を潜めた。
「ワシは、大将が死ぬところを見とうないのです」
「死のふは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりおこすのよ」囁くように唄う。「帰れ。うぬはわしが負けると思うておるな。否ぞ」
「否、にございまするか」
 大将は口の端を上げた。下腹が疼いた。負けが見えていて仕掛ける人ではない。この人が言うなら、勝つのである。なれば己が成せる唯一の事は。明々白々であった。
「往って参ります。犬千代には戦う事しかできぬゆえ」
 踵を返す。同じく首を持参した毛利十郎が「何処へ行く、又左」と止めたが返さず、又左は再び山へ分け入っていった。
 後ろで大将が、
「義元めは必ずや近くに居る。機を待て。乱取り、功名争いを避け、義元の首のみ狙え」
と諸将に檄を飛ばし、馬廻りが応と声を上げるのを、又左は背中で聞いて折れんばかりに長鑓を握りしめた。

「前田さまの首が飛ぶかと思いましたぞ」
 手越川を越えたところで、道祖神の石塚の裏から声がして、鎧櫃を背負った小男の百姓が現れた。大股で藪を漕ぎだすと、せかせかと後ろをついて来る。
「お主はもう帰っても良い。ワシはまだ一戦する故」
「真面目にございますなあ」百姓は感心したように頷いた。「してどちらへ」
「義元の首一つじゃ」
 初めて又左は百姓と目線を合わせた。野良着に編笠。手足は細く、背も並みより小さい。歳は同じ頃と思われた。曖昧な笑みを返し、竹筒を差し出す。又左は一気に飲み干した。
「前田さまがお殿さまの処へ行ってる間に、辺りを見て参りました。義元めは大高道を通る。そこを狙うが宜しいでしょう」
 又左の胡乱な視線に気づいた小男は、慌てて手を振った。
「お武家さまに雇われ、小間使いや物見をやった事があります」
 そう言って掌をこちらに向ける。ちゃっかりしているのう、と又左はびた銭を投げた。小男は首を傾げる。良銭を投げてやると、拳で薄い胸を叩いて言った。
「ようござります、案内仕ります。決まれば急ぎましょう。じきに一雨来る」
「……こんなに晴れているのにか?」
 二人は大高道を目指して、南側の山に入った。徒歩で半刻以内の場所に上総介信長、今川義元、どちらも居る事に疑いはない。義元本陣がどこに在るか、山々に散らばる先遣隊を退け到達あたうか。それが問題であった。
 見上げれば青葉は濃く、山は鬱蒼としている。緩い山を登り行くと、急に冷たいつむじ風が吹いた。山がざわめく。ばらばらっと石でも降るかのごとき音が頭上で聞こえた。かと思うと、一瞬にして土砂降りとなった。二人は、岩肌がせり出した斜面に転がり込んだ。
「お主の言う通りになった。どうして判った」
「木こりの真似事、炭焼きの真似事、色々やりましたからなあ。飯にしましょう、これでは戦さもできますまい」
 小男が火を熾す間、又左ははやる気持ちを抑えようと、木立の間から知多半島のなだらかな山々を見た。世は水煙に白んでいた。雨が波のように吹きつける。左手西側は急な斜面になって泥湿地となる。田楽坪といって地元の者は嫌がる土地だと小男は言った。この雨で谷底は海のようになっていよう。
 義元め、何処にいる。
 その時、強い北西の風が吹いた。田楽坪を越えた向こう山から、雨の音に紛れてわずかに人の叫び声が聞いた気がして、又左は雨に打たれるのも構わず身を乗り出した。
 今度ははっきりと鬨の声、陣太鼓の音が耳に届いた。
「まさか」
 愕然と口を開くと、火を熾しながら、のんびりとこう言う声が聞こえた。
「ああそう、あちらの山は桶狭間と申しまして。午の刻、今川本陣が着到し、北西に向け仮陣を張ったとか。雹まじりの雨と風向きで近づくのは容易でございましょうなあ。お殿さまが乾坤一擲の勝負に出なさるなら、好機を逃す筈はございませぬ」
 又左はゆっくりと振り返った。種火に照らし出された小男の目だけが、こちらを射るように注がれていた。
 雨が大粒の雹に変わり、木の葉から落ちて又左の肩を打つ。
「貴様知っていたのか」
 小男は口元を少し緩め、
「お前にゃ、行ってもらっちゃ、困るだがね」
と低く言った。

 小男は、ゆらりと立ち上がって唾を吐いた。
「これが最後の戦さだ。大高城に義元めが入ったら高みの見物をして、鳴海城を拠点に熱田、津島、そして清洲を落とす。織田に為す術はねえ」
 これが最後の戦さ。
 大高城と鳴海城、そして今川義元が入った沓掛城。この三城が、清洲城の最終防衛拠点であり、三城とも奪われた織田の危難は、又左も分かっているつもりでいた。
 人の良い、臆病そうな素振りをかなぐり捨て、小男は目を剥き、すきっ歯をがちがちいわせて詰め寄ってきた。
「城を足掛かりに攻められたら勝ち目はねえ。いいか、今ここで討つしかねえんだ。それくらいも分からねえ莫迦が、寵童だの、婆娑羅者だの、偉そうにしやがって」
 襟首を掴まれた。頭ひとつ違う背丈だのに足に力が入らず、又左はよろけていた。
「おいシャンとしろ。でくのぼう!」
 隣の山で織田勢が今川本陣に奇襲をかけている。歩けば四半刻足らずの場所で、大将が命を賭けている。死戦となるだろう。幾人が死ぬであろうか。大将自ら太刀を抜いて敵を斬り伏せ、山を一段一段登っているだろう。泥を撥ねらかし、大声で味方を鼓舞しながら。
 何故自分はその場に居ない。
「謀ったな下郎!」
 叫ぶや小男の腕を掴み、投げ飛ばした。枝葉を散らして小さい体が斜面を転がる。すかさず覆い被さって殴りつけた。小男は手近にあった枝を掴み、足をばたつかせながら脳天を打ってきた。怒りにまかせて体ごと持ち上げると、木の幹に打ちつけた。
「今川の間者が、殺してくれる」
「違う。聞けっ又左、功名を挙げたいんだろう」
「当たり前だ! 義元の首を獲るまで戻れぬ」
 細い首を締め上げる。
「義元の首じゃあ駄目だ」
「…………」
 手が緩んだ。
 真っ赤な顔で小男はもう一度言った。
「お殿さまがお前を赦さなかったのはそういう事だ。義元の首じゃあだめだ。もっとでけえ武功を挙げなきゃならねえんだ」
 こめかみが強く脈打つ。又左は唸るように命じた。
「……続けぇ」
 膝を折ってげえっと胆汁を吐き、小男は白い顔を上げた。
「一つ」親指を出す。二本ある奇形だった。「おめぇさんが織田を出て一年半。その間に腕の立つ奴は増えた。おめぇさんが稲生合戦や浮野合戦で名を挙げたのは何年の前だ? おめぇさん程度の剛の者は今や織田の御家にゃあごまんといる」
「ワシとて鍛錬を怠った日はない」
「二つ。戦さの要を視ろ」無視して続け、桶狭間を指さした。「おみゃあ見えるか。あれは、碁盤の上の一つの石に過ぎねえ」
「……おみゃあ、碁やんのか」
「やんね。いいか。ここも戦場だ。全ての石の名を頭に叩き込め」
 小男は、懐から継ぎ接ぎだらけの紙を取り出した。自筆とみえる地図を、一つひとつ指し示す。
「清洲、津島、熱田、鳴海城、鳴海城の砦として丹下砦、善照寺砦、中島砦。大高城、大高の砦として鷲津砦、丸根砦。今川方の城をがっちり囲んでる。今川は、海道一の弓取りだ。ちゃあんと砦にも兵を差し向けた。昨日夜遅く、鷲津と丸根が落ちたのは知ってるか」
「……ワシは鷲津におった」
「そりゃあ」小男は額をぴしゃりと打った。「おれは人を見る目だけは自信がある。お前がおめおめ生き延びたからには、為すべき事があるんだろう。さあ見ろ、戦場の広さを」
 又左は実際に彷徨った大地と、絵図を結びつけようと、息を詰めた。
 城と砦が互いを結び、敵と味方が乱れる地。それが桶狭間である。心臓が高鳴った。大将が平素見ている景色の片鱗を味わった気がして、又左は早口で言った。
「戦さは、義元の首を獲って仕舞いじゃない」
 小男は指を三本立てた。
「合っとう。三つ目じゃ。近くに義元本陣の先遣隊がいる筈だ。率る将までは知らねえが、百や二百はあるだろう。鳴海にゃあ岡部五郎元信、大高にゃあ朝比奈備中泰朝。本陣が危ういとなりゃ、一斉に駆けつける」
 仮に義元を討てたとて東海道、鳴海道、大高道、三方の道を塞がれ、弔い合戦といきり立つ敵に、返り討ちにされてしまう。
「もう一つ加えりゃぁ、お殿さまが尾張を平定したのは去年の事。土豪どもは様子見だ。お殿さまが落ち延びりゃぁ、小躍りして首を今川に差し出すだろうさ」
「どうすればいい」
「何故訊く。おれはただの百姓じゃぞ」
 又左は小男の肩を掴んだ。思わず身を引いて構える小男に顔を寄せる。
「ワシこそ自分の事は何一つ解らん。おみゃあ名は何だ」
「……益良」
「益良は知恵が回る。広きを視る目がある。どうすればいい、ワシに教えてくれ」
 雹が降りしきる藪の中、しばし沈黙があった。益良は目を伏せていた。細い髪を滴が伝う。耳の先が赤みがかっていた。やがて、くぐもった声で言った。
「お前さんにゃぁ、武がある。ならやる事ぁひとつ。大将になれ。大将の戦さをしろ」
「分かった。ワシは大将になって、大将の戦をばせん」
 即答すると、阿呆のくせして綺麗な目で見てんなよ、と呟きが聞こえたが又左は聞こえないふりをした。

     三

 二人は桶狭間に向かう田楽坪へ、大雨の中を進んだ。目を開けているのも辛いほどの風雨が襲いくる。桶狭間山の戦さは音も聞こえなくなった。大将であればきっと本陣に迫っていると念じ、妻が作ってくれた懐の御守りを一度だけ握りしめた。
 すぐに、田楽坪を越え山を登らんとする敵一隊が見えた。泥水の奔流に手をつき、必死に進んでゆく。数は多く見ても二百。一縷の光明を見た思いで益良の肩を叩いた。
「彼奴ら本陣に後詰へ向かうんだ、大将は生きてる」
 益良は神妙な面持ちで頷いた。
「ええか。此を越ゆれば田楽坪、其の向こうが桶狭間。奴を除けば、お殿さまは義元の首に手を掛ける」
 此を越ゆれば田楽坪、其の向こうが桶狭間、と又左は繰り返す。
 又左は飛び出した。膝まで泥に浸かる。後方の敵兵が気づいて、敵襲、と声を上げた。
「単騎どころじゃねえ、単足か。又左はとんだうつけじゃ!」
「うつけは大将の代名詞じゃ、嬉しいのう」遠雷の音とともに名乗る。「荒子城主、前田利昌が四男、孫四郎こと前田又左衛門」
 青光が閃いた。遅れて雷鳴。怒号、馬の嘶き。灰色の天地に境はなく、稲光が人の形を浮かび上がらせる。又左は泥土を泳いだ。後列の足軽が持ち盾を十ばかり斜面に据えた。小癪な、と口に入った雨を吐く。繁みに隠れた益良が、両手を口に当て叫ぶ。
「野戦と思うな、城攻めと思え!」
 泥土を削り流れる溝は竪堀、くぼ地は水堀。盾は土塁。鷲津砦と同じだ。正面から攻めても落ちぬ。なれば。又左は盾の前を全速力で横切り、右横腹へ回った。敵は構え直すため長柄を一旦上げなければならぬ。遅滞をつき、寸刻を惜しんで身を捩じる。泥土が波と散る。しゃがんで盾を構える足軽の太腿に鑓を押し入れ、蹴倒し、滑って顔から突っ込んだ。頭上から降る鋒が又左の肩口を抉った。喚く雑兵を殴りつけ、持ち盾二つを奪った。正面からの刺突を間一髪盾で防ぐ。
 斜面の上、丘の尾根に黒糸縅の半頬の将が留まりこちらを見ている。あれが隊を率いる将であろうと眼の端で窺った時だった。近くに雷が落ち、めりめりと木が割ける音がした。
「又左、上だ」
 稲光に紛れ、味方を足台とした足軽が盾を越えて、鑓の穂が落ちてくる。間に合わないと覚悟を決めた。その時。繁みから数騎が飛び出した。三間半の長鑓が敵足軽を軽々と突き通し、跳ね飛ばす。又左と反対の横腹から挟撃され、敵は算を乱した。
 萌黄縅の鎧の男が馬を駆って、軍配を振るいながら名乗りを上げた。
「我は飯尾近江守定宗が嫡男、尚清である。今川が旗本松井氏と見ゆる。尋常に勝負せい」
 尚清の兵五十は横並びになって長柄鑓を高低に構え、槍衾とする。逃げに転じた足軽を打ち据える。泥の中に崩れる敵の背を一突きにし、次列の兵の脇腹を撫で斬り、坂の下へと突き落とす。落ちたところを足軽が飛びついて止めを刺す。
「押せッ」
 又左は石突きを持って大車輪に振り回し、尚清の駒に追い縋った。
「あれはワシが先に手をつけた首ですぞ、隠岐どの。何故戻られた」
 負けじと尚清は歯を剥いた。
「砦を落とし本戦にも出ないとあらば、武功の一つも挙げねば上総介の覚えも悪かろう。左様に思い直した次第。牢人前田はすっこんどれ」
「おう、臆病者の隠岐どのとは思えぬ勇ましさじゃのう」
 後ろから追いついた益良が、肩を上下させて悲鳴を上げた。
「どっちでもいい、早くなさいませ」
 二人は声を揃えて良うない、と一喝した。
 その時であった。兵が単騎、山の稜線を越えてきた。背に使番の母衣がだらりと下がる。旗指物は丸に二つ引両、今川の旗本の使番であった。
「御大将御討死! 義元公、御首級を奪われ、御討死にの由!」
 雷が轟いた。
 下剋上の音であった。
 又左は、信じられない思いで顔を拭った。雨足は急速に弱まってゆく。騎乗の尚清が首を振り、呆然と呟く。
「上総介どのは……ご無事であろうか」
「決まっておる。大将は負けぬと言うた」
 その時であった。ギャーっと奇声が上がった。
 不思議な光景を、又左は目にしていた。
 今川兵が、牙を剥くかのように口を開け、獣のごとき咆哮を発しているのだった。ある者は膝をついて狂ったように土を掻きむしり、別の者は吠えながら長鑓を折る。ある者は脇差で己の喉を一突きにした。吠え声が山に木霊する。地が揺れているかのようだった。
 益良が編笠を持ち上げて水滴を落とし、苦々しく言った。
「狂っちまった」
 否。又左には彼らの気持ちが分かった。告げられたのが大将のそれであったなら、自分も同じ事をしただろう。
 遠慮がちに尚清が咳払いをした。
「……追い首ぞ。逃すな又左」
 大将力をお貸し下されと祈り、鑓を高く掲げた。これから言う言葉は、大将がよく戦場で檄を飛ばす時の文句であった。
「良いかッ、一兵残らず刈り取るぞ!」
 応、と声が上がる。それを合図にどっと襲い掛かる。
 雨は止み、青黒く渦巻く雲が低く早く、うねりながら又左の頭を越え流れゆく。海の底から龍が泳ぐのを仰ぎ見るように思われ、背が伸びた。又左は死体を足掛かりに一足跳びに進んだ。得物を捨て森に逃げ込む者、座り込んで念仏を唱える者は放っておいた。
 あれにはならぬと誓った。
 黒糸縅の敵将を守るのは残り数騎となっていた。尚清が手振りで味方を左右に散開させ、頂上を包囲する形となった。益良が悔し気に喚いた。
「何で武器捨てんのじゃ」
「最後の数騎が巧者よ。これまでのようには行かん」
 敵将が駒を進めた。片鎌の鑓身を構える。半頬の間から細い目が見えた。
「松井左衛門尉宗信である。死出の旅に貴様どもの首を頂戴仕る」
「おい、お前」益良が走り出た。「頭ぁ死んだんだろう。何で死ぬために戦う。なあ、もう止めようや」
 怒りを込めた静かな声で、松井宗信が答えた。
「恥辱を越えてなお生きろと命ずるなら、足る器であれ、下郎」
 なお言いかけた益良の襟首を掴み、後ろに下がらせた。又左と松井は睨み合い、呼応して気を吐いた。前を見たまま、尚清が言った。
「わしが正面から当たる。牢人前田は傾斜が緩い左側面へ回れ。騎乗もせぬ足軽を囮にしたとあらば、名折れじゃ」
「応」
 ハッと短く声をかけると、同時に駆け出す。嘶く軍馬の腹を蹴って、騎馬十騎が真正面から躍り掛かる。間を縫って又左と益良は左側面へ出、ざっと泥地に腰を下ろした。片膝を立てて三間半の鑓を低く水平に構える。
「石突きを抑えろ」
「槍一本でどうするんじゃ」
 泣き言を漏らし、片膝をついて益良が長鑓の尻を押えた。松井が一騎、こちらに転じて駒を走らせ来る。片鎌鑓を軽々操り、左右に幾度か馬首を振るのを、又左は穂先で追った。
「馬の胸を狙う」
 松井は一端馬を止め、視線を定めた。左手側から又左の頭を狙って鑓を繰り出す。又左が紙一重で避けるのと、三間半の長鑓が馬の胸を貫くのは同時だった。
「駒を狙うとは卑怯也」
 松井の苦い声が言った。又左は冷然と返す。
「これからはそういう戦さじゃ」
 馬が狂ったように暴れる。ず、ず、とけら首まで押し入った。血だまりの金具を越え、熱い鮮血が手を汚した。馬が喘ぐと、生あたたかい鼻息がかかる。見開いた目に涙を溜めた馬の大きな面が、すぐそこにある。手を離すなと又左は怒鳴った。鑓はたわむように作られている。離さなければ騎乗の馬すらも復原力で跳ね返す。押されて腰まで泥に潜る格好になった。
「又左、後ろ!」
 悲鳴が聞こえた。躱した片鎌鑓が引き戻り、鎌が又左の首筋を狙っていた。咄嗟に左肩を上げる。焼けるような痛みが走り、肉が抉られたが、首は繋がった。
「お、おおおお」
 血を草摺で拭って満身の力を込めた。穂先が外れて馬がどっと後方へ跳ね、平衡を失って倒れる。鑓も真っ二つに折れてしまった。又左は打刀を抜き、泥土を漕いで近寄った。
 馬の下敷きになった松井左衛門尉は、口から大量の血を吐いていた。又左の泥に塗れた顔を見るとくぐもった声でこう吐いた。
「上総介を恨む」
 駿府、遠江、三河、三国を統べ、尾張に手を掛けようとしていた治部大輔義元は、天下に最も近い人であった。彼の者が亡くなれば、遺領を巡って諸大名の争いは激しくなろう。難しい言葉は又左には分からなかったが、松井の嘆きは理解できた。
「大将は、今川に勝る大器の御人じゃ」
 言って力が湧いてくる。松井は、世迷い事をと顔を歪めた。
「前田とやら。鎧櫃の下人、大事にせえ」
「ワシの家臣じゃにゃあで」
「なれば、共に往けよ」
 松田の目が次第に濁り始める。喉がごぼごぼと鳴る。半頬を外して首を露わにさせ、再び強く吹き始めた南風に煽られながら、肚に力を込めて刃を落とした。
 青草の露が光を受けてきらめく。丘の上に曇天を割って青空が見えた。
 桶狭間で又左が獲った首は、二つとなった。

 半刻ばかり山を下り、大高道に出た一隊はようやく飯を食い始めた。この日、誰一人として朝から飯を食っていなかった。竹を切って簡易な門を作れば大高城から撤退する兵を足止めし、散った味方を集める事ができる、と益良が提案した。
 雷雨は過ぎ去り、塩気と熱気をはらんだ南風が雨雲を押し流してゆく。血と泥の臭いが風に流れ、街道には陽炎が立った。
 益良は褌一丁になり、折れた又左の鑓の代わりに分捕った片鎌の鑓を木に立てかけた。脱いだ小袖を掛けながら不思議そうな顔をする。
「お侍さま方、重い甲冑をお脱ぎになっては。濡れて気持ち悪うございましょうに」
「戦場で鎧は脱がん」
 左肩の手当てを終えた又左が、糒を齧りながら答える。益良は肩を竦めた。
「へぇ。覚えておきましょう。おお、御味方がまた来ましたぞ」
 街道に翻る木瓜旗を見て、散った織田勢が続々と集結してきた。興奮した兵が口々に言う事には、主君上総介の行方は不明だが、義元が討たれたのは確からしかった。
 又左は何故か喜ぶ気になれず、巻紙を開いてみた。松井の首を獲った時、襟廻しから出てきた文で、家族への遺言ならば家臣に渡さねばと思ったのだった。果たして、短い書きつけがあった。何かの歌の写しであろうと思われたが、滲んで読めたのは次の一行のみだった。
《何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂え》
 あ、と思い当たることがあった。
「『死のふは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりおこすのよ』」大将が又左に囁いた歌だ。「隠岐どのはご存知か」
 閑吟集に似た歌があったような、と尚清が答える。死は誰にでも来る定め。死んだのちに偲び語られるために何をしようか。後世の者がそれを語り継ごう。そういう歌であった。
 大将とは。いや将たるものは全て、何と孤独な事か。又左は天を仰いで、涙が零れないよう堪えた。遠い道を往けば、自分もその境地へ至るのであろうか。
「大将は、死ぬ御覚悟で合戦場に参られた。生かすは我らが定め」
 又左は益良と尚清、集まった兵をぐるりと見、高くこう言った。
「大高城を獲り返す」
「この寡兵で陥とせるかよ」
「益良はワシに大将になれと言うたろう。大高城を陥とさば桶狭間に散る残兵は進退窮まる。これより先は追撃戦、これより前は将の戦さじゃ」
「お侍さま、猪武者の又左どんに何とか言って下せえよ」
 益良に取り縋られ、糒を咀嚼し終えた尚清がむっつりと間に入った。
「大高には朝比奈と井伊がおるのを忘れたか。易々陥とせるものか」
「朝比奈、井伊、共に義元めの危機を聞きつけ、城を討って出たのではないでしょうか。手薄と見まするが」
 これを聞いた尚清は特に反駁もなく、芋茎の汁を啜って長い溜め息をついた。
「おい又左、わしに無礼な口を利くこやつ、何奴だ」
「そういえば益良は何故合戦場をうろつくのか、ワシも存じませぬ」
 途端、益良は顔を背けながらもごもごと何事かを言った。
「ああ? 聞こえぬ」
「侍になるんでさ」
「侍」尚清はげらげらと笑った。「細こい猿が侍だと。愉快であるな」
「だから言いたくなかったんだ」
 益良は口を尖らせ、そっぽを向いた。
「お前、侍になりたいのかあ。それで合戦場の広さを視ようと、戦さを識ろうとして来たんじゃなあ。無茶をするのう」
「…………」
「向いとるかもな」
「……そうかい」
 改めて奇妙だと思う。牢人である自分と、武士ですらない素性の知れぬ益良と、織田家中でも位の高い飯尾尚清。同じ陣笠で沸かした芋茎の汁を啜るなど、常なら考えられない光景であった。
 又左は優しく益良の肩に手を置いた。
「ワシは益良の知恵なしには来られませんでした。こやつは目鼻が利くし、人の心を読むのが上手い。大高城攻め、如何か」
 尚清は集った兵を見渡した。今や二百は下らない数で、大高城に至るまでに更に増えるだろうと思われた。ふむと頷き、言った。
「主ら、揃って無礼であるが、悪くない」
 風が吹いて青草が翻る。木瓜の陣旗が折れんばかりに強く、はためいていた。

     四

 陽が傾きだした申の刻、大きく入り江になった河口に大高城が見えた。対岸の丘に二つ、焼け落ちた砦が見える。くすぶる煙が立ち昇る様は、森の鮮やかな緑が際立つ中、一層痛々しかった。
「沖の服部党めは、尻尾を巻いて逃げたか。父上の見立て通りよの」
 橙に染まる海面向こうを睨んで、尚清が呟く。
 朝夕二度目の満潮を迎え、干潟は消えて大高城の際まで波が打ち寄せる。堀には満潮時には川の水と海水が混じり、水堀となる。幅はゆうに十間(約20メートル)はあり、渡るのは至難の業だろう。城は外曲輪と内曲輪の輪郭式で、鷲津と丸根の砦が丸々入るほどの広さがあった。
「四方のうち北が海、東が入り江。攻め手は南か海の際を走って西か」
 道の脇の岩で益良が伸び上がると、堀を見た尚清が頓狂な声を上げた。堀の上部には逆茂木が植えられていた。
「朝にはなかったぞ! 鬼術でも用いたか」
 鬼術という言葉に、足軽たちにざわめきが広がる。鬼術使いだの行者だのは戦場で兎角恐れられる存在だ。しまった、と又左と尚清が互いを盗み見た時、
「簡単でさ。ワシは色んな普請場を廻りやしたが、作業の班を五なり十なり分けて、仕事の早い班に三倍の銭を出すと言えばあんな作業、半日で済みまさァ」
と益良がわざと大きな声で言うと、そうだな、ワシもやった事がある、などとざわめきはすぐに収まった。益良は、二人に耳打ちした。
「ただ、急がせてやったて事ァ、義元が討たれた報は届いてる。尚戦う気構えなれば、面倒ですぜ」
 又左は迷わず言った。
「二手に分かれましょう。尚清どの、兵の半分を預けて下さりませ」
 馬上の尚清は、わざとらしい溜息とともにこう答えた。
「兵百五十を託す。西側海より本丸を目指せ。わしは二の丸から攻め掛かる。押し太鼓とともに両側面から攻撃開始よ」
「承知仕った」
「のう又左。益良を預けぬか。あれは使える」
「残念ながら、此度の合戦はワシの鑓持ちにて。次の戦さは知りませぬが」
 にっと歯を見せ笑うと、尚清も鼻を鳴らして口の端を上げた。
「食いづめの牢人はやはり食えぬ」
 西の浜へ既に歩き出していた益良が、早くしろと手を振っている。
 朱に染まる伊勢の海。寄せる波、返す波に遊ぶように浜千鳥が海面に降りて羽を休める。戻ってきた、と又左は思った。
 西側に兵百五十を連れて出た。出構えのように張り出した曲輪と土橋があり、本丸に至る冠木門の左右に櫓、ぐるりと簡素な鹿垣が巡らされていた。堀の斜面には逆茂木が植えられており、堀を渡って攻めるのは不可能にちかい。
 分捕った胴衣を身に着けた益良は、又左を見て大仰に顔を顰めた。
「そりゃあ趣味が悪うござらんか又左どん……」
 今川方の長柄の先に、青白く目を瞑った松井の首を下げているところだった。豊かな黒髪の房を縅糸でしっかり結わえつける。
「左様な事はござらん、益良どん」真面目に答える。「立派な御仁であったよ。ワシは大将になるに、この人の力を借りようと思う。大将には、陣旗が必要じゃ」
「大将の趣味を皆に分からせるため、副将のおれがひと働きするか」
 山から冷たい風が吹いた。益良はぴょんと飛び上がり、疲れの色濃い自軍百五十を見渡し手を広げた。
「皆々、高うは御座いまするが、申し上げ奉りまする。こちらにおわするは荒子城主の御子、前田又左衛門どの。先の本戦にて今川方、松井左衛門尉を討ち取った武辺者也。見よ六尺の大身、鼻梁通った涼やかなかんばせ、皆々様には荒子観音の御加護が御座いますれば、御力お貸し召し候」
 よおっ鑓の又左! と誰かが声をかけ、手拍が広がる。又左が後を継いだ。
「あれなる城を見よ。翻るは葵紋。朝比奈備中、井伊伊豆いずれにも非ず。敵は寡兵である。取り返さんとすれば、我らが討った松井左衛門尉が首を、攻手の印とせん」
 松井の首が下がる長柄を、暮方の空に差し上げる。
 居並ぶ足軽の目に気力が満ち満ちた。首級を携え共に参上した毛利長秀、毛利十郎、木村金右衛門たちの姿が見えた。合いの手を入れたのはお主らか、と片眉を上げて見せると、にやりと笑みが返った。誰も彼も手傷を負いながら、獣のような餓えを漲らせている。毛利長秀が、
「お主について行くぞ!」
と腕を突き上げると感情が迸った。長鑓、得物を打ち鳴らし、胴衣を叩き、足を踏み鳴らす。南方から、押し太鼓と金物の音が響いた。尚清隊が動いた。又左は鑓の尻を地に打ち下ろし、
「一期は夢じゃ、夢なら狂えよ、いざ往かん!」
と檄を飛ばし、砂地を大股で歩きだした。長柄の人印を持たせた益良が横に並ぶ。
「涼やかなかんばせとは、よう言うわ」
 益良は顔にこびりついた乾いた泥を、指で掻いた。
「おれは、お前の顔がいいのと、糞真面目なところだけは、信じとる」
 忍び笑いが漏れる。二の丸目指して疾駆する尚清隊が見えた。夕日に片鎌の鑓穂を煌めかせ、又左は小走りに振り返って、気勢を上げた。
「彼奴ら騎兵ぞ、武功を獲られてたまるか、駈けろ」
 方形の出構は目の前だ。俵を積み上げて向こうに鑓兵が待つ。どうすると聞かれ、決まっておろうと返す。
「勢いのままに突破する」
「ヤァ――ヤァ―――、っは!」
 音頭を取って自ら俵にかじりつき、一足飛びによじ登る。又左が一番に天辺を超えた。敵の鑓が突き出されると同時に右腕を振った。
「崩せ!」
「エーーンヤ」
 百五十が殺到し、俵に取りつき、山を押し崩す。落ちた俵が守備兵を圧し潰した。持ち手を失った鑓が又左目がけて襲い来る。腰を下ろし、膂力を振り絞って大きく弧を描いて悉く薙ぎ払う。左肩の傷が開いて籠手を朱に染めたが構わなかった。
「仕寄りだ、仕寄れ!」
 俵を数人がかりで持ち上げ、盾として進む。土橋を走って渡って、冠木門の前に入れ代わり立ち代わり積み上げてゆく。又左は後ろに走り込んで腰を落とし、門と櫓を窺った。左右の櫓に弓兵がそれぞれ十人ばかり。弓を雨と射かけてくるのを、俵の盾でにじり寄る。
 人の高さまで俵が積まれると、又左は毛利十郎と先を争って跳んだ。
 弓返りの音がして一矢が太ももを霞め、一矢が右肩に命中した。焼けつく痛みが骨を軋ませ、歯を噛んで耐えた。鑓を門の棟木に差す。ぶら下がり、もがく足で棟木を蹴って門を越えた。ばらばらと数人が続く。櫓に飛び移り、弓兵を突き殺す。飛び降り逃げようとする者は放っておいた。足を懸命に動かして梯子を降り、門の裏手に回ると閂を上げて味方を引き入れた。
 百五十人が雪崩れ込む。門の脇にあった木盾を持たせ、左右に振り分けて馬場を縦列で進む。
「尚清の奴、もう二の丸を抜くぜ、急ごう」
 正面は小高い本丸である。中央の小さな陣屋を急襲し、大将の首を挙げる。そうすれば大高城落城と相成る。息を細く長く吐いて、又左は陣屋を見つめた。
 陣屋の裏手から一隊が現れた。益良の声が上擦っていた。
「三つ葉葵の旗印。名は知らねえが城将だ」
 先頭に、朱糸縅の鎧を着けた将。城将である証に、脇に控える男が金地に赤丸の太極旗を掲げていた。
 時とともに茜色から紫色に変じる空は澄み、たなびく群雲の影は濃さを増す。宵の明星が輝きはじめ、金地の旗が鈍く光を照り返した。
 旗持ちが独り歩きだす。背が高い。鉢金を鉢巻で締め、簡素な胴丸は体格に合っていなかった。近づいて来ると、十代の元服もそこそこの青年だと分かった。けば立った眉は高く釣り上がり、白目が目立つぎょろ目は閻魔像を思わせた。
 誰かが怯えた声で言った。
「又左よりでかいんじゃねえか」
 本丸と馬場を繋ぐ唯一の石段を、旗持ちの青年は旗を傾ける事なく、一段一段下り始めた。朱糸縅の鎧の城将は、石段の上に泰然と居る。兜で細かい表情は窺えなかった。弓を射れば届く距離だが、誰もその事を言わなかった。息を詰め、青年を待った。
 尚清が二の丸を抜け、追いついてきた。同時に、旗持ちの青年が大音声を響かせ、奏した。
「御大将開城し、速やかに兵を退くとの由」
 明け渡しだ。又左と尚清は顔を見合わせた。益良が激怒して叫んだ。
「決めるのが遅え。すぐに開城していりゃ、死なずに済んだ兵がいる。勿体ねえ」
 旗持ちの青年は、こめかみに青筋を立てて凄んだ。
「口を慎め下郎。太刀の一振りで首飛ばすぞ」
 青年が太刀に手を掛けると同時に益良をかばって前に出た又左は、片鎌鑓の石突きちかくを握り、柄をしならせ繰り出した。鎌に金旗の柄を掛けて揺らし、青年が旗を守ろうと前のめりになったところへ、切っ先をぴたりと眉間に合わせた。
「やめよ」
 良く通る声が段上より響いた。朱糸縅の城将が、石段を下りるところだった。城将の姿を認めると青年はざっと膝をついた。又左も鑓を収めた。
「長柄の首級は誰か」
 松井左衛門尉と答えると、城将は松井どのが、と言ったぎり絶句した。又左は、睨みつける青年の横を通り過ぎ、石段に足をかけた。押しどころだ。脅しの色を含ませ言った。
「ワシらは大高城が手に入れば、何処へ行こうと構わぬ。しかし一戦も交えず駿河に逃げ帰ったとあらば、名は地に落ちまするぞ」
 返答次第では石段を駆け昇り、城将の兜の錣を跳ね上げ、首筋に鑓を叩きつける覚悟であった。しかし、乾いた笑いがこれを押しとどめた。
「武士の矜持などないし、駿河にも戻らぬでな。高配忝し」
 青年が名を呼んで諫めるのも聞かず、軽やかな足取りで下りて来る。鑓が届く距離にまで近づいた。さほど年の変わらぬ、丸顔の若い男だった。城守を任じられるとは良家の嫡男なのであろう。引き上がった意志の強そうな眉と、つぶらな丸い目に宿る閑やかさが対照的だった。
「私の首が欲しいのだな」
 城将は又左の長躯を見上げてらいなく問うた。首肯すると、肩を竦めた。
「誰ぞの首が殊勲になり、下剋上の梯子となる時代は、永く続かぬ」
 初めて聞く見地に、又左はどきりとした。首を獲るのが武功ならぬなら、次の時代はどうなる。お主には視えているのかという問いを呑み込んだ。
「某は槍働きしか能がござらぬ」
「考えてみよ」
 いずれ答えを聞こうとでも言いたげな口ぶりであった。
 知らずのうちに両の腕がだらりと垂れ、又左は穂先を下げていた。どうしてか、体が自然とそうなった。見とめた城将は満足げに頷き、再び石段を下り始めた。
 すれ違いざま、扇を口に当て、
「上総介さまには『竹千代の首を逃した』と伝えるがよい」
と囁いた。振り返るとからりと笑い、悠々徒歩で大手門へ向かって行った。
 闇が迫る大高城で、誰もが押し黙って得物を収め、敵の一隊が影となって城を出てゆくのを無言で見ていた。敵が土橋を渡り始めた時、一人益良だけが松井の人印を振り掲げ、
「後ろから射かけてやろうか」
と悔し気に呟いた。
 又左の合戦は終わった。
 日の暮れた桶狭間の山々で、今川勢は続々と追い首を討たれ、梟も鳴かぬ夜となった。朱糸縅鎧の若い城将が無事に撤退できたのか、遥と知れなかった。
 松明が赤々と燃える大高城の一角で、又左は松井の首印と並んで黒々とした桶狭間の地を透かすように見続けた。
 たった一日で世がひっくり返った。海道一の弓取りが討死にし、戦乱は桶狭間より再び全土に燃え広がる。その種火の音を聞いていた。
 松井の首は、無念の顔をして唇を噛んでいた。長柄から首を外すと、又左は冷たい頬を一度だけ撫で、麻袋へ仕舞った。麻袋を抱き、その晩は泥のように眠り込んだ。

 一両日後、又左は鳴海城で大将に会いまみえた。
 今川方でなお抗戦する岡部五郎元信を包囲する陣であった。尚清とはそこで別れ、彼は休む間もなく沓掛城攻めに加わるのだと告げた。尚清は何か言いたげであったが、
「次の戦場では功名譲らぬからな。益良にはいつでもわしが雇ってやると伝えい」
と軍配を傾けた。又左はにっこり笑い返した。
「また共に戦さをばしましょうぞ」
 まっぴらじゃと吐き捨てる声とともに、尚清は馬の腹を蹴って去った。又左は手を振って見送った。
 それから御前に上がり、首級一つと竹千代を逃した旨伝えると、大将は大口を開けて笑い転げた。周囲の者が何事かと訝しむほどであった。目尻の涙を拭いつつ、
「又左、その首獲っていたら、わしがお主の首を刎ねていたやものう」
と言われ肝が冷えた。
 大将は床几から立ち上がり、日に焼けた又左の顎を掴んで上向かせた。幾分痩せた大将の目を、又左はじっと見返した。鋭い目の中に憂いが一瞬浮かんで消える。立場が許すなら大将の顔に触れたいと思った。
 泥に荒れた手が、又左の目の下を撫でた。
「帰参お許し頂けましょうか」
 震える声で申し上げる。大将は指を返して舌で舐め、
「まだ甘い味がするのう」
と言った。それで陣を追い出された。桶狭間にて前田又左衛門の獲った首は三つであると、軍忠状には記され、承了の印判を押されて処理された。

 焼くような日差しの元、高い空に雲が湧き、振り返れば桶狭間の山々は青く霞んで、陽炎を透かして海沿いに大高城が見えた。南風が吹く。嗅ぎ慣れた潮の匂いは肺を焼かんばかりに蒸していた。又左は、片鎌鑓を引きずって重い足どりで進んだ。鑓の尻が地をこすって砂埃が舞った。
 数町行くと、大樹の木陰に見覚えのある小男が鎧櫃を置いて腰を下ろしていた。又左の顔を見ると、底意地の悪い笑みで迎えてくれる。
「さて、牢人又左どん、於まつさまのところへ帰りゃしょう」
「何故妻の名を知っておる」
 たまげて声が裏返った。小男は二本ある右手の親指で鼻をこすった。
「そりゃあ、於まつさまの美しさは、天下に聞こえてございます。さ、旨い湯漬けでも馳走になりましょうかな。今晩はぐっすり休むがよろしかろう」
「明日の事はそれから考えるか」
「左様」
「ただ狂へ、とな」
 手の甲で目を擦り、洟を啜る。益良はちら、とこちらを窺い、左様左様と答えた。
 青天は変わらず抜けるような目映さである。益良はどっこいしょと声をかけて立ち上がり、後ろに回ると鑓の尻を担いで肩にかけた。後ろが大股で歩けば先頭は同じ速さで歩まねばならぬ。柄を伝う力が又左の背を押した。
 二人は清洲を目指し、東海道を片鎌鑓を担いで歩きだした。

 前田又左衛門利家の首印は、「高徳公桶狭間奏馘図」としてのちに残されている。
 首の主が誰であるかは、判らない。


(四〇〇字詰め原稿用紙換算六十三枚)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?