『我が手を離れよ恋心』

※本作は『くれないの言』(「決戦!設楽原」収録)、『落梅の賦』の内容を含みますが、未読でもお楽しみ頂けます


『我が手を離れよ恋心』

 恋文は、紅色の浜梨(はまなす)を添えて、晩夏の夕涼みのころ安倍川のほとりで手渡した。
 娘はふいをつかれたように目を見開き、文を開いて、和歌だ、と言った。
「あたしは難しい字は読めないんだよ。右衛門さま、読んでおくれよ」
 清安(せいあん)と作った和歌を詠みあげると、娘は空になった桶を小脇に抱えなおした。
「勇ましそうな歌だねえ。右衛門さまらしいや」
 返事はいらぬ。ただ、受け取ってくれればよいのだと無理に笑って、季節はずれの蜩の鳴き声を聞き、夕映えの川べりを歩いた。河口にちかい黄金色の流れには、浜辺から飛んできた浜千鳥が二羽、低く飛んでゆく。
 たくしあげた小袖の裾から出る健康そうな太い足で、大股に歩みつつ娘がこちらを見る。
「下働きとして甲斐へついて来てくれとは、言うてくださらんのかい」
「ウキさんにはきっと、山の暮らしは退屈だと思います」
 魚売りの娘であるウキは夕陽に赤らむ顔に、白い歯を見せた。
「じゃあ、右衛門さまとはじきに御別れか」
 土右衛門尉昌続(つちや うえもんじょう まさつぐ)は一抹の口惜しさを胸に、ふたたび山をわけ入り甲府へと帰着した。
 酒宴の席で山県三郎兵衛尉昌景(やまがた さぶろうびょうえのじょう まさかげ)や武藤喜兵衛(むとうきへえ・のち真田昌幸)らに、ことの顛末を話して聞かせると、女にもてる武藤喜兵衛は残念そうな顔をした。
「その魚売りの娘。側女としてでも、ついてきたかったのではございませんか」
 身分の違う娘と夫婦には成りえないが、好いた女を側に置く者はおおくいる。
 昌続は素直な気持ちを口にした。
「御屋形さまの御許しがなければ、それがしは女子を妻に迎えぬ」
 駿河でウキを見たことがある山県昌景が、大仰に嘆く。
「右衛門は女心がわかっておらぬ。ウキという女、いまごろ泣いておるぞ」
 あの気の強い娘は泣いただろうか。けれども、屋形への忠心を曲げるわけにはいかぬ。軍神と怖れられる屋形に仕え、身命を遂げたい。恋より忠心を、自分は選んだ。
 所帯も持たず、我が子を抱かずに死ぬは愚かだと、人は笑うかもしれない。
 愚かな一生を、土屋昌続は歩んでいる。

 ある日、屋形に呼ばれて躑躅(つつじ)ヶ崎館の御前に赴けば、懐紙入れを渡された。
 京縮緬(ちりめん)の小花の文様が染め抜かれた薄紅色の女物で、屋形にしては珍しい品選びである。
 屋形は目を落とし、唇をわずかに尖らせた。
「三ツ者が、余計なことまでわしの耳に入れるでな。浜梨の君にやるがいい」
 駿河で娘と逢っていたのを、忍びの者が見ていたのか、と背筋が縮んだ。上目遣いで屋形を見れば、気を害したふうでもなく、子供のように頬をふくらませている。屋形がほかの小姓と夜を共にした翌朝など、ばつが悪そうにするのと、おなじ顔だった。
 屋形は小さく言う。声は掠れ、最後はよく聞きとれなかった。
「そなたを手元に置きすぎた。さっさと嫁をとれ」
 屋形は家臣が所帯を持つのを止められぬ。この人の孤独を、ほかに誰が知るだろう。もし、この人より先にウキに出会っていたら、自分はどちらを選んだろう。
 二人を天秤にかけようという己の傲慢さが息苦しく、吐き捨てるような言葉になった。
「娘とは今生逢わぬつもりで文を渡した、それだけにございまする」
 屋形はそうか、と呟いて、それぎり二人は無言でいた。

 それから幾年かが経った天正三(一五七五)年。皐月五月。
 三河国、長篠設楽原。
 蒸した空気を胸に入れ、昌続は敵前を見据えた。南北約半里にわたって布陣した織田・徳川、約三万の兵の旗差物が揺れている。
 大通寺で山県昌景や馬場美濃守信春(ばば みののかみ のぶはる)、内藤大和守昌秀(ないとう やまとのかみ まさひで)らと水盃を交わしたとき、彼らが奇妙な夢を見たと話していた。先の屋形、徳栄軒信玄が夢枕に立ち、それぞれに命を授けたというのだ。
「四郎勝頼が屋形にあたわぬときは、弑してほかの者を屋形に据えよ」と。
 水盃の水は、冷たく歯にしみ入り、昌続は自らが見た夢をともに飲みこんだ。
 じつのところ、自分の夢枕にも屋形は現れた。ただの己の願望が見せた夢だと思う。
 深い霧の向こうに背を丸めて、屋形は伏し目がちに立っている。無我夢中で駆け寄ろうとすると、手を出して遮られた。
 まだこちらへは来るなということか、と思った。
「なにか仰ってください、御先代さま」
 手を伸ばしたところで目が覚めた。
 伸びた己の手の先にはほの暗い天井が見えるばかりで、床には常のとおり誰もいない。
 妻もない。自分は、一人だった。
「……御傍に行きとうございます」
 呟きは、間断なく轟く火縄銃の発射音に、かき消された。
 すでに一番山県隊、二番信廉隊、三番小幡隊は三重の馬防柵に取りつき、引き倒そうとしている。青白い硝煙があちこちからあがり一塊の煙幕となって、眼前は霞んでいる。昌続が布陣する中備(なかぞなえ)八束穂(やつかほ)には、まだ攻撃の命はない。煙を吸ったらしく、目と喉が痛んだ。
 右翼名高田(なこうだ)、馬場隊が丸山を落とした鬨の声は、すこし前に聞こえた。その後馬防柵を破った報がこない。待つのも堪えて鐙を踏んだとき、大きな声がした。
「屋形はいるか」
 赤く目を腫らした穴山玄蕃頭信君(あなやま げんばのとう のぶただ)が、馬を走らせてきた。この男が来たということは、六郎少彦信友(ろくろうすくなひこ のぶとも)との野田城急襲作戦が失敗に終わったということだ。野田城を陥とし、織田方の背後を断てば、いまごろ織田弾正忠(おだ だんじょうちゅう)の首は四郎勝頼の前に据えられていただろう。
 険しい眼差しに気づき、穴山信君は歯を剥きだした。
「はなから勝敗は知れていたのだ。本陣へゆく。俺が力ずくでも四郎を退かせる」
 信君について本陣へ行こうとすると、怒鳴りつけられた。
「御一門衆より後ろへさがるのか、臆病者め」
 中備には典厩信豊(てんきゅう のぶとよ)ら一門衆がいる。攻めようにも命がおりぬ苛(いら)だちを、言葉に滲ませた。
「……玄蕃さまを御一人で行かせて、御大将を殴られでもしたら困りまする」
 信君は馬から降り、早足で歩きだす。
「殴って四郎が退くなら、拳骨が腫れるまでそうする」
 後方の本陣では、屋形・四郎勝頼は端然と床几に座っていた。背後に御旗(みはた)を掲げ、家宝の楯無(たてなし)を置き、諏訪法性の兜の庇の影で表情は判然としなかった。
 いくぶん冷静さをとり戻したものの、信君は屋形へ詰め寄った。
「四郎、いますぐ退け。勝敗は明らかだ。重臣たちをこれ以上失う前に」
 屋形は一呼吸おき、息子の名を静かに告げた。
「押す。わしが死んでも武王丸がおる。織田弾正忠を討つ好機を逃してはならぬ」
「四郎!」
 激高して拳を振りあげた信君の腕を、昌続は掴んだ。
「御止めくだされ、玄蕃さま」昌続は屋形に向き直った。「御屋形さま。私も出まする」
「うむ。典厩にも出よと告げよ」
 副将である典厩信豊まで前線に出すというのか。
 すべての将が斃れるまで戦うつもりなのだ、この人は。
「承知」
 信君を引きずるようにして昌続は陣幕を辞去した。そのあいだにも右翼左翼の苦境を告げる伝令は、つぎつぎ飛び入ってきた。
 信君は目から大粒の涙を零した。
「武田は、敗ける。累代の重臣を死なせてしまう」
「しっかりなさいませ。某は典厩さまと討って出まする。これにて」
「右衛門。死ぬな」信君は声を嗄らした。「お主はつぎの重臣筆頭ぞ」
 馬鹿げた物言いに肩の力が抜け、可笑しくなった。
「もうつぎの屋形のおつもりですかな」
 前線に戻って馬に乗り、押し太鼓を鳴らさせた。厳しい顔つきの足軽たちのあいだを進み、連吾川(れんごがわ)の向こうの織田方の陣城を見据える。織田方馬廻り佐々成政、前田利家、福富秀勝、野々村正成らの鉄砲隊が陣城の一段目、二段目にひしめいていた。
「敵に不足なし。参るぞ」
 すぐ横の典厩信豊隊も動きはじめた。連吾川を渡ったころ、隣接する左翼一条信龍(いちじょう のぶたつ)の隊より使番がやってきた。
「一条、典厩、一斉に攻めると」
「承知した。こちらもあわせる」
 敵が馬防柵から出てこない以上、こちらから攻めこむしかない。御一門衆を失うわけにはいかぬ。必然的に土屋隊が一番前に出ることになろう。連吾川を渡ってから敵陣までは三十間(約五十五メートル)を切る。敵の火縄銃は沈黙しているが、一重目、二重目の馬防柵からは銃身が突き出て、狙いを定めているのが見える。
 従者の温井左近昌国(ぬくい さこん まさくに)が、後ろから囁いた。
「すぐに至近距離での撃ちあいになりまする」
 幸い一重目の外側に逆茂木がすくない。敵の籠る高台に兵が入りきらず、馬防柵を張りださせたゆえに、逆茂木を据える場所が減ったのだろう。それだけ敵の中備は厚い。土屋隊が最前に陣取り敵の火縄銃を浴びることで、典厩信豊隊、一条隊が馬防柵を除けるのを待つしかない。
 玄蕃頭信君が死ぬなと言ったことが、存外に嬉しかった。せこい男だが、武田を想う気持ちは変わらないのだと感じた。
 山県昌景も今朝の軍議でそっと、耳うちしてきた。
「危なくなったら必ず逃げよ。武名に勝るはそなたの命(いのち)ぞ」
 先代・徳栄軒信玄が死した際、昌続は追腹を切ろうとして、春日弾正忠虎綱(かすが だんじょうのじょう とらつな)に止められた。あのときは気が触(ふ)れたように泣き叫んで、みっともない姿を見せた。皆、主君を喪った悲しみはおなじだというのに。
 屋形・四郎勝頼が命を懸けて敵を屠ろうとしているのに、自分だけ命を惜しむことができようか。
「ゆけ」
 足軽が竹束を掲げて前進する。敵陣から火縄銃が射られた。三十間を切ると正確に狙いを定めて竹束を射抜き、手を撃たれた足軽が膝をついたところへ、次射が飛んでくる。鉄の陣笠に鉛弾の当たる鈍い音がした。
 左で典厩信豊隊が、右から一条隊が間あいを詰めていく。左翼や右翼では自軍を左右に振り、敵の動揺を誘うこともできようが、中備は、前に進むしか術はない。
 正面、三重目の馬防柵に囲まれた高台で、佐々成政と見える南蛮胴に無骨な筋兜をつけた大将が、采配を振った。敵前列六十間(約百十メートル)でいっせいに轟音が鳴った。天地を雷鳴が引き裂くかに思えた。
 耳鳴りが収まるころ、ようやく白煙が流れ去る。土屋隊、典厩信豊隊、一条隊で先陣をきった足軽が、すべて倒れ伏していた。あちこちで手が空を泳ぎ、呻き声と、叫喚が満ちる。
「らちが明かぬ」
 北側から使番が駆けてきた。最右翼、馬場信春の隊の者と名乗った。
「北へ攻めあがれないかと。真田隊の働き凄まじく、これを援護すれば三重目の馬防柵へ届くと」
 馬場、真田は二重目を破りそうなのか。この陣城は、ひとところが破れれば一気に綻びよう。
 織田弾正忠の首を獲るか、武田大膳大夫の首を獲られるかだ。
「わかった。北側へ攻めあがる」
 采配を振っていったん味方を退かせ、右手、丹羽、滝川隊が守る北側へと攻めあがる。すでに連吾川を越えて真田隊が一重目の馬防柵を破り、二重目に取りかかっている。丸山には御一門の武田信友の花菱が翻っていた。すでに雁峯山への退路を押さえたか、と安堵の息が漏れた。
これであれば、攻められる。
 二重目の馬防柵は急に斜面がせりあがり、銃弾が降ってくるようだ。正面から真田隊、南側から自隊とで挟撃し、味方の死体を乗りこえ、二重目まで数間へと迫った。
「騎兵を出せ」
 温井昌国が手を振り、騎兵が進む。二百騎。譜代家中では山県昌景や跡部勝資(あとべ かつすけ)につぐ兵を預かった。
 これを、使い潰す。
 まず足軽を横列に組んで押し進める。死に往(ゆ)けと、采配を振る。
 火縄銃が火を噴いた。次射まで脈拍十二拍。間あい三十間を騎兵で詰める。
 折り重なる足軽を踏み越え、騎兵が斜面を駆けあがる。昌続自身も前に進んだ。竹束に当たって跳弾が数寸横を掠めた。まだ神仏の御加護は離れていない、と思うと同時に汗が全身から噴きだした。
「長柄!」
 騎兵が馬上鑓や熊手を手に、二重目の馬防柵へ突進する。馬ごと体当たりして馬防柵に熊手を掛け、勢いそのままに踏み倒した。馬防柵が崩れたところから足軽が乗りこみ、鑓を振るって敵を叩き伏せ、突き殺していく。
「押せ」
 押すしかない。南側を見れば、典厩信豊隊、一条隊もいくつか馬防柵を引き倒して、二重目の戦列が崩れかけている。北側でも真田の六文銭が動き、鬨の声があがった。
 三重目へ手を掛けられるかもしれぬ。
 そのとき、風音が聞こえ、自分の愛馬の頭へ鉛弾が吸いこまれていくのが見えた。馬が体勢を崩し、温井が素早く叫んだ。
「土屋さまを御守りしろ!」
 竹束が周りを囲み、馬から投げだされた昌続を守る。四肢を震わせ、哀(かな)しげな声をあげる愛馬へ一瞬、眼差しを注いだ。馬防柵の向こうで、「土屋右衛門が落ちた、あの竹束の囲みだ」と声がし、無数の鉛弾が撃ちこまれる。敵まで十間(約十八メートル)。竹束を押さえる足軽がこちらに仰向けに倒れてきた。陣笠ごと頭が割れていた。抉られるように左肩が熱い。自分の肩にも弾が当たった、と悟った。
 温井が叫ぶ。
「御退きくだされ」
「退かぬ」
 自分が退けば、つぎは隣隊の典厩信豊が狙われる。副将を殺させるわけにはいかぬ。
「ここを死地と定めよ」
 後ろから味方の鉄砲兵を繰りだし、至近距離の撃ちあいがはじまった。頭が万力で締められるように痛み、被弾した腕を縛りあげる温井が叫ぶ声が聞こえない。
 進め。真田。敵がここに釘づけになっているあいだに、陥とせ。
 竹束は砕け、もう昌続と温井が身を隠すほどの幅しかない。足軽が竹束をなんとか届けようと斜面でもがくが、つぎつぎ射殺され、死体の山が高くなるばかりだ。
 震える手を懐に当てた。懐紙入れを手に取りたいと思った。
 夢で、御屋形さまの言葉が聞きたかった。
 たった一言でいい。
 そうすれば、わたしは悔いなく死ねるのに。
 思いながら、自分を叱咤した。惑うな。欲しがるな。なんのための心だ。
 心があるから惑う。二人の君を比そうとするのだ。
 忠心も恋も、この手から逃げて愚かなわたしを置いてゆけ。
「わたしが、三重目を破る」
 一瞬、銃声が止んだ。太刀を抜いて、昌続は竹束から飛びだした。真田、典厩信豊の隊からも兵が走る。影が長く、伸びた。
 馬防柵に手を掛けた。柵の向こうの銃兵が驚いて、尻もちをついて後ずさる。臆するな、とほかの銃兵が銃身をこちらに向けた。火縄が火皿へ落ちてゆくのが見えた。

 安倍川のほとりで、ウキがくれた言葉が蘇る。
「返歌はどうしようかね」
 ウキは河原へ降りていき、文に添えられた浜梨の花を安倍川へと流した。川面をまわりながら、紅色の花が流れゆく。旗なら字が読めなくてもわかるよ、とウキは自慢げに胸を張った。
「三つ石掲げ給え、たかく、たかく」
 唸り声をあげて、死した味方の背旗(せばた)を掴み、一歩敵陣へ踏みこむ。血塊が落ちた。
 旗を見よ。彼岸で、駿河の浜辺で。
 見えるか。


《了》

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