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【トークシリーズ#2・レポート】中田一会さんに聞いてみる!「家を継ぎ接ぐ」で考えたこと

ゲスト:中田一会(きてん企画室主宰)
聞き手:ササキユーイチ、高木蕗子、久保田翠(NPO法人クリエイティブサポートレッツ)

東京で生まれ育った「わたし」が、祖父母の遺した千葉の一軒家に移住することから始まったドキュメント・エッセイ『家を継ぎ接ぐ(つぎはぐ)』。その筆者であり、広報コミュニケーションプランナーでもある中田一会さんは、気づけば多様な人が訪れるようになったその家の珍妙な生活を通して、家や暮らし、家族や人との関係性について考えたといいます。そんな「わたし」と「家」をめぐる物語と、それらを同じような状況にある「わたしたち」と共有していく方法についてうかがいました。

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『家を継ぎ接ぐ』とは

中田:広報コミュニケーションという仕事を生業にしています。企画やメディアやイベントを通して何か実践している人がなぜそれをやっているのか、届くべき人にどうやったら届くのかを一緒に考えながら情報発信する仕事です。
 一方で、昔からその日の記録を残すことにこだわりがあって、すぐ日記を書くしいつも写真を撮っています。それで、個人がアーカイブ活動を楽しむ「キロク学会」というコミュニティをつくってみたりもしました。今日お話しする『家を継ぎ接ぐ』もそういう私の興味関心からはじまった活動です。
 『家を継ぎ接ぐ』は2019年5月に文庫本を自費出版しましたが、もともとは2017年の7月に母方の祖父母が遺した古い家で暮らそうと思いついた日から、2018年10月までの記録をウェブサイトに残していました。匿名の「だである調」の文章で、1テーマ1記事というルールで15ヶ月で67本の記事を書きました。この記録活動は、《ことのはじまり》というコンセプト文を公開するところからはじまったので、その全文を読み上げます。

2017年夏、32歳も終わりかけの夏。

東京の郊外で生まれ育ち、東京都心で暮らしてきた「わたし」は、ふと、東京から少しだけ離れることにした。移り住む先は、都心からJRで約1時間、千葉の住宅街にある「家」だ。

それは、かつて母方の祖父母一家が暮らしていた場所で、今は空き家となっている築60年弱の一軒家。趣のある古民家でも、リノベーション済みのおしゃれな住宅でもない。やや変わり者の家族の歴史が、たくさんの家財とともに生々しく残る、きちんと歳を重ねた感じの昭和の家だ。

まちにも、特に特徴はない。海も山も縁がない住宅街で、最寄り駅はとても小さい。親しい友人も近くに住んでおらず、家族も一緒ではない(「わたし」は2年前に離婚していて、子もなく、親兄弟は離れて暮らしている)。

だけど、「わたし」は、そこでひとり、しばらく暮らすことにした。おそらく2、3年ぐらい。オリンピックの騒がしさが過ぎ去るまで。新しい仕事づくりが落ち着くまで。この人生の曖昧な継ぎ目の期間を「家」で暮らしたい。増改築の跡がくっきり残る、継ぎ接ぎだらけの家の寿命を、あと少しだけ延命するべく自分が住む。「家」と「わたし」がお互いの接着剤になるようなつもりで。

ひとまず始めてみようと気合いをいれて記録をここに残すことにした。

とても個人的な話で、とても私的なプロジェクトだけど、なんとなく、きっと、同じようなことにつまずき、悩み、救われ、考えている、同じような「わたし」と「家」が日本には点在している予感がするので。

2017年7月31日。

 このコンセプト文の下には、記録を始める上で考えていきたいことをリスト化して掲載しています。第一に、「家」というと、物件だったり、家族だったり、家制度のことも指しますが、それと「わたし」の気持ちいい状態ってなんだろうと。次に、この記録には「わたしたち」という言葉が何度も出てくるのですが、「わたし」に連なる「わたし」と同じような状況にある人たちを「わたしたち」と呼べるとしたら、そういう人たちに届けたいなと考えました。それから、私は東京の郊外生まれで当時都内で働いてたので、東京という場所を改めて眺めてみようと思いました。あとは、リアリティ、生々しさを大事にしようと。ライフスタイルを提示するとかキラキラした移住生活を見せるのではなくて、ちゃんと暮らすことを見せたいと考えました。

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 この家の最寄駅はJR総武線のとある各駅停車の駅です。空がとても広い。子どもの頃から夏休みに通っていたのですが、30年たった今も変わらず開発されていない。駅から8分歩くと、日本中どこにでもあるような住宅街の中にその家はあります。いわゆる趣のある「古民家」でもなく、昭和の時代に建てられ、増改築を繰り返してきたような継ぎ接ぎだらけの家です。住み始める前に覗きに行ったときには、お土産や家具がいっぱいあって、遺影もあれば祖母の書道もあって、生活の匂いがしっかりするような感じでした。祖母が亡くなってから5年間空き家でした。叔父たちが風通しや片付けをしたり、法事の拠点になったりはしていたのですが。
 ここからは、なぜ『家を継ぎ接ぐ』を始めたのか、やってみて何が起きたのか、そのあいだに何を考えたのか、そしてこれからについてお話ししたいと思います。

プロジェクトをはじめた経緯

中田:では、最初になぜ始めたのか。それが伝わるように『家を継ぎ接ぐ』の7月~9月の記事の中から一行ずつ抜粋して構成してみたので読み上げます。ことのなりゆき。/私は数年前に1回家庭生活から逃げてその家で過ごしたことがある。/条件を聞かれたのでとにかく家族の匂いがしない賑やかな街がいい、と答え勧められたのがこの街だ。/東京は高いねとため息をついた。本当にそう、ちょっと無理。無理すればいけなくもないんだけれど、その無理が無理。大事なことを失う気がする。/地縁と血縁が苦手だ。が、次の暮らしはそうはいかない。/そういうことは世間では普通じゃないから言わないほうがいいと女性としての人生観について女性から指摘を受けたことがあったっけ。/あれから3年、まさか長く住むとは思わなかった。ここは仮住まいで最初の2年で次の生き方をバシッと決め移動するつもりだったのに。/昔の過敏な私だったらきっと気持ち悪くてたえられなかったのに、今はそのほうが落ち着く予感がする。
 『家を継ぎ接ぐ』を書き始めたのは2017年7月ですが、引っ越したのは9月末で、あいだの2ヶ月間は家族や暮らしのことについてひたすら綴っていました。私は20代のほとんどを一緒に過ごしてきた男性と27歳で入籍して、別居を経て31歳で離婚が成立しました。つまり、バツイチの独身です。いわゆる共働き世帯であれば、収入的に東京のいろんな場所や家で暮らせる可能性もあったでしょう。でも、自分一人になってみると東京には住む場所の選択肢が少ない。払える家賃を基準に考えると住める街が限定されてしまったり、学生が住むようなアパートぐらいしか見つからなかったりする。同時に、家族という共同体についても昔から引っかかりがあるのですが、なかなか同世代で話せる相手がいないなと思っていたのがこの時期です。「結婚」や「出産」って30代の女性にとってはとても繊細な話題で、価値観もそれぞれなので。だったら、家のことも家族のことも、女性としての人生観も正直に言葉にすることによって、話せる相手や仲間を探そうかなと思ったのが、『家を継ぎ接ぐ』をはじめた理由です。

祖父母が遺した一軒家での珍妙な暮らし

中田:『家を継ぎ接ぐ』は匿名の記事とはいえ、Facebookでシェアしていたので、親戚、友人、仕事相手にも私が書いていることは知られていました。すると、仕事で一度しか挨拶したことのない年下の作家の男性が「Facebookにあげていた家、次いつ行かれますか、僕もご一緒できませんか」と声をかけてきました。彼は昭和に撮られたスナップ写真をリサーチをしていて、祖父母のアルバムがいっぱいあるその家を面白がっていた。彼がそう言ってくれたことがきっかけで、家に人を招き入れることや家の話を公開していくことにだんだん慣れていきました。他にも仕事仲間が面白がって、「中田さんちに視察ツアーに行こうよ」と車を出してくれて、引越し前からみんなで行って雨漏りの確認をしたり、「扉を外したら使えるね」というようなことを一緒に話し合ってくれたり。予備校時代の先生で、映像作家の方が「ドキュメント映像を撮ってみたい」と、10年ぶりに連絡をくれて撮影にやってきたりもしました。
 逆に、「うちの家が面白いから遊びに来ない?」と誘ってくれる人も現れました。それは友達のお母さんだったのですが、その人の夫が65歳を過ぎて一人暮らしをしてみたいと言いだして、神楽坂の中古マンションで突然一人暮らしを始めたんです。趣味のものがいっぱい詰まった家で、「妻としては腹が立つんだけれど、暮らしとしては面白いから見に行こうよ」と。そのご夫婦に、『家を継ぎ接ぐ』の話をすると、「うちもそういうことがあってね」と話題が広がって面白かったです。
 祖父母の家への引っ越しで、キーマンになったのは近くに暮らす伯父でした。彼は市内の公立高校で教頭先生をやっていたので、地域の人からの信頼が厚くて。女一人で一軒家に住む怪しさを緩和するために伯父の信頼感を使おうと、一緒に挨拶回りをしてもらいました。このあたりは意外と近所付き合いがあって、お向かいさんからお土産をいただいたり、庭で何かしていると通りすがりの人にも声をかけられます。祖父母や伯父の人付き合いがそのまま継承されているのが、いま私がこの地域で住める理由なのかなと考えています。
 いよいよ引っ越しするときには、空間デザイナーの友人が手伝ってくれました。リノベーションとかおしゃれな家具を入れるのはやめて、まずは壊れたものを直して、不要なものは片付け、使えるものは再活用しようと提案してくれて、一週間くらいかけて片付けを手伝ってもらいました。お掃除期間の最終日には、友人を呼んでご飯を囲みました。<掃除修繕模様替え、そして来客。今わたしが暮らし始めた家はちょっとへんてこで楽しい姿になり呼吸をし始めた》ですね。カーテンやカーペットを外すことでも、人を招くことによっても、家の感じは変わっていくなと思いました。
 あと、私が祖父母宅に住む決意をしたことで、3歳年下の弟が掃除の手伝いに来てくれました。それも1週間の住み込みで。最初は「よくこんな都心から離れた古い家に住もうと思ったね」と言われたんですが、片付けが終わってみんなが来たら、「いい家だな。うらやましいな」と言い出して。《なんだここ居心地いいなあと帰り際に名残惜しそうに言い残した彼に姉はニヤリとした》という。その後、「実はアパートの更新期間だし、新しいことに挑戦したくて家賃を下げたいから、あの家で一緒に住まわせてくれないか」と連絡が来て、まさかの弟と一緒に暮らすことになりました。そんな流れで、十年近く疎遠だった彼と今も共同生活を送っています。
 そして、いざ千葉で暮らし始めると、近所の方が「誰が帰ってきたんだろう」と挨拶に来てくれたりしました。高齢の方が多い地域なので「人が住んでくれるだけで嬉しいよ。どんどん騒いでいいから!」と言ってくださる方もいました。私は、自分がここで暮らすのは迷惑じゃないかなと思っていたくらいなので、嬉しかったです。そういう考え方もあるんだなと。
 我が家では年1回、芋煮会をやるんです。「一度来れば遠いと思っていた場所も近く感じるから」という友人の提案で、30人ぐらいが一気に集まる日を設けているんです。《15ヶ月の間に家は姿を変え、様々な人が訪れ暮らしの場所としてすっかり安定した。時々事務所になったり合宿所になったり宴会場になったりもする》というわけで、芋煮会以外でも、月に1回くらい誰かしらが来ていますね。私が企画せずとも、「中田さんちだったらなんでもできるから泊まりに行こう」とか「ご飯会やろう」という感じで。記録をとり、ウェブ上で記事を書いているうちに、少しにぎやかで珍妙な暮らしになっていきました。

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生き方の観察とつくる力の練習

中田:なぜこんな暮らしになったかと考えると、《東京のスピードはちっとも届かず父の田舎ほどの共同体感もなく、かといって郊外の主役である家庭生活はここにない》と書いたように、両親と暮らす家でも夫婦で暮らす家でもないし、弟がいることで女一人の家に押しかける感じにもならない、いい塩梅で自由にできる場所になっているからかなと思います。ということはつまり、いわゆる普通の「家族の家」の使い方ではないということなんですが。昔から私はなぜだかちょっと人と「ずれる」ところがあって。そんな自分の生き方の癖を自ら観察しようというのが、『家を継ぎ接ぐ』だったのかなと思います。
 だから記事でも、自分の性分やこれまでの人生に触れています。《わたしはずっと友達をつくることが下手だった。人付き合いの当たり前がよくわからなかった。》と書いたのですが、広報職をやっているというとコミュニカティブなイメージがあると思うんですが、私はもともとすごく人付き合いができなかったんです。克服しようとして右往左往しているうちに、人と付き合う方法を見つけてそれが仕事になった。そんなことにも気づきました。
 これは両親が法事で家に泊まることになった日の記録なんですが、《そこはわたしの苦手な色合いがしている。息が苦しい。前の珍妙な誰のための器でもないようなそういう場所に早く家をリセットしなくては》と。姉弟暮らしをしている時間は珍妙な家としてあったのが、両親と子どもが揃ってしまうと、急に生活感があってルールがはっきりした場所に戻ってしまったような気がしたんです。なぜそれがしんどいのかということを、この日からずっと考えています。じゃあ一人で気ままに生きたいというわけでもなくて、日々誰かと暮らす意味はとても大きいと思っていて、《恐怖や危機感すら共振先や守る人がいないと鈍るのだ。「ねえ、このニュースさ」という相手は人間らしさを保つために必要だなあと切実に思う》と。とはいえ誰かとパートナーシップを組むのは、惑星を探すみたいに難しいなあと思う日もあります。誰とどこでどうやって暮らすのかは、私にとっていつも難しいことです。
 それでも、この家で暮らしてから、友人知人との関係には大きな変化がありました。来た人は「物理的に距離が遠いから相談ができるようになった」とか、「またエスケープしにくるね」と言ってくれます。空き家だった頃、母がこの家を「みんなの避難所」と呼んでいたんですが、まさにそんな感じ。しかし避難所で暮らし続ける私自身は何から避難しているんだろう。誰かの避難を受け入れ続ける私はなんなんだろうとも考えたりして。そんなことにモヤモヤしていたら、弟にこんなことを言われました。《なんかさ、こう浮くんだよね、自分。周りの人たちから。本当に物心ついた頃からそうでわりと社交的にしているつもりなんだけどな、気がつくと変わったやつって扱われて大縄跳びの外にいる感じ》と。ああ、私たち姉弟はもしかして浮きやすい姉弟なのかなと思って。私は私でなんだかなんか浮いてるなと思いながら住んでて、同居している弟も同じようなことを考えていて、だからいくら二人で暮らしてても、いわゆる生活感もなければ安心感もないというか。
 そうして我が家やいよいよ駆け込み寺のようになってきました。連休になると大学の後輩や昔の職場の同僚が来て、平気で10時間とかしゃべり続けるんですが、そのうちだいたいみんな泣くんですよね。人生のこと、家族のこと、恋愛のことで泣く。それにつられて私も泣く。でも、なんの解決もしてあげられないので、「そうだよね」と言って終わるんですけど。それは、《「わたし」の話を外気にさらしていくと「わたしたち」の話になっていく》ということなのかなと思っています。《話は話を引き寄せ生き物のように増殖して私の小さな話ものまれていく》とも書きましたが、自分の話を書くと、「それ、私のことかも」と思った人が来て同じような話をする。でも、それによって寂しくなくなるわけじゃなくて、寂しい人が集まるだけなんですよね。だけど、たくさんの寂しさが集まることによって私の寂しさが別の寂しさの中に埋もれる。それは回復するのとは違う。だけど、寂しくても大丈夫と思えるくらいのささやかな効能はある。『家を継ぎ接ぐ』を続けながら、《なんでもない日常を見て、感じ、考え、書くそれをぐるぐるぐるぐる繰り返していたら、いつの間にか日常の解像度が上がっていた》。あそこの花が咲いたなと気づくことだったり、自分の感情に前よりも丁寧に向き合えることだったり。
 私は何を得たくて『家を継ぎ接ぐ』を綴ってきたのか。《わたしたち世代の新しいものは祖父たちの世代とは少し違う。戦後ガンガン生産されたあらゆるものと仕組みを見直し、解体し、仕立て直し、賢く使う。そういうつくる力が今わたしは欲しい》と書いた日があります。祖父母の世代が戦後一生懸命働いて、子どもを育ててということをした結果、5人家族の器としての家がちゃんと残っている。私自身はそこを使わせてもらっている立場なんですが、祖父母と同じように家族を持ってしっかり稼いで新築一軒家を建てて……という暮らしは、今の時代を生きる自分にはそんなに向いているとは思えない。だから、あるものを使わせてもらって、そこから新しいものをつくれるようになったらいいと思うし、『家を継ぎ接ぐ』はつくる力の練習なのかなと今では思っています。

『家を継ぎ接ぐ』の終了とこれから

中田:2017年9月から暮らしはじめて、この9月が来れば丸2年住んだことになります。もともとこの家は、2020年になったら更地にして売った分を下の世代に渡そうと親族が言ってきた場所なんですね。なので私たち姉弟もそれまで使わせてもらおうと思っていたんですが、最近になってちょっと考えが代わりました。
 この『家を継ぎ接ぐ』を15ヶ月でやめたのは、ずっと続けていくと、生活を記録しているはずなのに記録のために生活してしまいそうな気がして、それは違うからやめようと思ったんです。ただ、ここまで書いたなら何か落とし前をつけようと思って、友人知人を巻き込んでウェブサイトの記事を232ページの本にまとめて、一部売ったり大事な人に渡したりしています。一人の人が住み暮らした15ヶ月の話が誰かの本棚に残っていて、何年後かに知らない人が読むのだったら面白いし、別の「わたしたち」に出会えるかなと思っています。そうして今、合計100冊ぐらいが、誰かの手元に渡ってます。それで、家については最近、建て替えようかなと思い始めています。今の状態だとあと10年ぐらいは延命できるけれど、30年先まで住むのは物理的に難しい。かといって更地にするのももったいない。それに親族でもあの家を建て替えて引き継ぐと言う人は誰もいないので、私がやってもいいのかなと。ここまで関わってしまったし、地域にも愛着が湧いてきて定住してもいいかなと思えるようになったので。なので『家を継ぎ接ぐ』の更新は止めたんですが、『巣をつくる』というウェブサイトをたてて、新しい記録を取り始めています。家ってまず家族とかパートナーシップがあってからそれに合わせてつくっていくものかと思うんです。でも、それがない私がこの先どこで誰とどうやって暮らしていくのかをイメージしながら、どうあっても暮らせる場所とか、明日私が違うところにいても誰かに預けられる家の設計を考えるとどうなるのか見てみたい。そして、都会に暮らしているけれど、へその緒のようにつながっている物件が地方にある人は意外といるので、そういう家や暮らしにお邪魔させてもらってその物語も残していきたい。そうやって話を共有することで、家や家族、暮らしについて周囲の人ともっと考えることができるんじゃないかなと思っています。私が次の誰かに何か渡せるとしたら、そういうことかなと。

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ディスカッション

高木:たけしと生活研究会は、もともと重度知的障害者の一人暮らしがテーマですが、今回は、暮らしという普遍的なテーマについて紐解く回になったと思います。私自身、レッツのスタッフの先輩と家をシェアしていますが、当初は、家族以外の人と住んだり誰かを家に呼び込むのって、他人同士で新たな家族をつくるイメージがあって、私には無理かもと思っていたんです。でも、実際シェアしてみて思ったのは、「わたしたち」とは言っても属性の違う人が集まるということ。徒党を組むのでも大きなものを強い意味で共有するグループでもなく、プライベートを全部晒すわけでもなく、ちょっとした感情を共有したり同じことをしてみたりする。それだけで、今寂しいと思っている人が少し楽になるのではないかと思いました。
 ご家族が来た時にルールが発生して居づらかったという話をされていましたが、誰かが来たときのルールはありますか。

中田:「家を開いてるね」とよく言われるのですが、実は逆で、適切に閉じていると思っています。心地よい距離感でお互いがいるために、踏み込まれたら困る空間を設定するとか、誰でも招くようにはしないとか、家の外観の写真はウェブに載せないとか。来た人にルールとして明示はしないんですけど、私の心の中にちょっとした決めごとはあります。
 ちなみに弟との暮らしは家族暮らしというより、シェアハウスというか独身寮状態です。高木さんのおっしゃるように、私も経験上、人は簡単に家族になんてなれないし、婚姻関係を結んでいてもやっぱり個人と個人だなと思うことが多かったです。「共に暮らす」って、物理的に一緒に暮らしているだけでは叶わないんですよね。

久保田:私は結婚して子どもが生まれて、いわゆる家族をつくって、30年近く一緒に住んできましたが、家族の大変さをつくづく感じています。なぜかというと時々ふっと離れるとか、関係が変わることがほとんどないんですよね。親子、ましてや障害のある子どもだから、同じような関係性から一歩も外に出ていけない。それってしんどいなと思うし、彼がそれを望んでいるならまだしも、望んでいるかもわからない。望んでいないんじゃないかとすら思う。ちょっと離れてみたいという思いは強くあるけれど、現実的には重度障害者だからできなくて。だから思い切って彼の住まいを考えてみようと思ったんです。でも、薄々わかっていたんですけど、「たけしと生活研究会」というのは自分のこれからを考える機会なんだろうなと。
 うかがってみたいのは、中田さんはオーソドックスな家族に対してどう思っているのかということ。それから、これから巣づくりを始めるというのは意外だったんですよ。そこから離れたい、風通しのいい関係性を築きたいと思っていたのに、ローンを組んで家を建てるという、束縛される方向に飛び込もうと思った心境の変化を聞いてみたいです。

中田:オーソドックスな家族が絶対嫌だと思っているわけでも、パートナーシップを組みたくないと思っているわけでもないんですが、なぜだかいつもそこからずれるんです……。『家を継ぎ接ぐ』的暮らしを選ぶ時点でいわゆる一般的な家族生活ができるのかどうかもあやしいですよね。嫌じゃないんだけれど「家族、絶対必要!」とは思っていないのかも。だから、誰とでもどうとでも暮らせるような状態をつくれたらいいかなとは思います。
 巣づくりを始めようと思ったのは、ローンを返すのって目標が明確なので、中だるみしそうな30代後半を頑張れるかもと思ったからです。わたし、そういうプレッシャー、好きなんです(笑)。あと、自分でリスクをとって場をつくるということは、空間のオーナー権を持ちたいと思ったから。自分の空間で誰とどう暮らしてもいいんだというメッセージを形にしてみたい。私が苦手だと思っていた家や定住の形も、一から建てれば変えられる、試せるんじゃないかと考えています。

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ササキ:『家を継ぎ接ぐ』でやってきたことや『巣をつくる』でやろうとされていることって、生活の中に現場を持つことなのかなと思いました。なおかつ、それを中田さんの職能を使って発信しているのは、ある種の表現のようにも見える。表現と、自分の人生をつくることは不可分だという感覚が僕にはあるからそう思うのかもしれません。
 『家を継ぎ接ぐ』にはいろんな人が関わっていますよね。どこまでが意図的でどこまでが想定外だったんですか。

中田:生活の中に現場を持つっていい言葉ですね。それまでは東京の都心で働いていたので、千葉に移り住むと言うと、「あんなにバリバリ働いてきたのに地方で落ち着きたいの?」とややネガティブに受け取る人もいたんです。でも、私は、郊外の普通の家に住み暮らすことが面白そうだし刺激的だと信じていた。その良さを文章で伝えられないならプロ失格だなと思って、腕試しのような感覚でした。半ば意地ではじめたというか。だから、周囲の人に関心を持ってもらえたのは狙い通りでしたが、こんなに毎月のように人がやってくるのは想定外でした。

久保田:なんでみんな来るんでしょうか。特別呼んでるわけじゃないんですよね。

中田:芋煮会の日だけ自分で企画して人を呼ぶんですが、それ以外は友人知人から「これやりたいから行ってもいい?」とか「行く口実がほしいから何かやって」と。一度来たらすぐには帰れないぐらいには遠いので、長居するんですよね。そうすると愛着がわくのか、2回目以降はより気軽に来てくれます。

ササキ:避難所というキーワードがありましたが、中田さんの家にやってくるのはどういう感覚なんでしょう。

中田:居酒屋とかではできない話も閉鎖空間だと話しやすいんだと思います。私が先に自分の悩みを書いているので、何を話しても拒否されないし論理的な解決も求められないだろうと思うのかもしれません。その感じが避難所っぽいのかな。遠くに話を置いて帰ることができるというか。

久保田:たけし文化センター連尺町の3階には、障害のある人たちのシェアハウスと一般の人のゲストハウスを併設しています。障害のある人たちだけが住むのではなくて、スタッフでもない、ふらっとやってくる人が必要だと思ってつくりました。障害のある人たちが集まって住んでいたら誰も来れない感じがするかもしれないけれど、遊びにくるとか休憩しにくる場所になれたらと思っています。

中田:きっとそうなりますよね。レッツは遠方からいろんな人を呼ばれているから、そのついでに泊まるというのはいい口実ですよね。そして、障害のある人と一晩過ごしたり朝起きたら同じ空間にいる状況って、家族や福祉の仕事に就いている人じゃないと経験しないことだと思うんです。でも、一度たけ文でそういう時間を過ごしたら、次からは違う場所でも感覚が変わる気がします。私が今日ここに来ると言ったら、泊まりに行きたいと言う人は周りに何人もいたので、一緒に遊びに来れたらいいなと思いました。

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ササキ:写真のリサーチをしているアーティストが何回も片付けに来て、家族アルバムをアーティストの目で見ていくうちに、中田さんよりも家族史に詳しくなっていくというエピソードが、『家を継ぎ接ぐ』に出てきますよね。家族に対して他者の目線が注がれることでそうなっていったのが面白かったです。
 それを読んで、第1回目のトークで来てくれたNPO法人風雷社中の中村さんの話を思い出しました。障害のある方って自分の思い出を自分で話す人もいますが、壮くんは難しい。でも、彼が過ごしてきた場所や出会った人たちの写真は残っている。その写真を入れていけるプラットホームがあって、そのとき関わる人たちと写真を共有できたら、例えば、過去の山登りの写真を見て、それなら今度行ってみようというふうに、アーカイブがアイデアの種になるんじゃないかと。中村さんはヘルパー事業の現場でそういうことを試みているという話でした。記憶を編集することで新しい遊びが生まれて、それは家族の目線とはまた少し違ってくるというのを、『家を継ぎ接ぐ』を読んで思い出しました。

参加者1:主に出てきた話が、家というハードではなく人や繋がりのことで、結局そこに住んでできたものが、何かを解決するための増築とかではなく本だというのが、面白いです。記録することへの関心がもともとあったとはいえ、なぜ一人で住んだ時に物語が紡がれていったのか。逆に、家族と住んでいた時にもそういう物語があったのか気になりました。答えを出すために順序立てて考えるわけでもなく、人の話にどんどん乗っかっていく、それって何だろうなと。物語を中田さんが必要としていたのでしょうか。

中田:思い返せば、結婚していた頃もブログをやっていたんですが、普通の夫婦暮らしのことを開いてもしかたないと思っていたので、その時は「築80年の古民家で1年間暮らしてみた」という体験記事を書いて、それが暮らしのウェブマガジンに掲載されたことはありました。でも物語ではなかったですね。いわゆるレポート記事でした。
 物語って唯一他者のことを想像しうる手立てで、他者と生きていくために物語が必要だと私は思っています。私たちは生まれた瞬間から「わたし」という一人称から離れることはできないけれど、物語を読むことによって自分とは異なる人の人生を追体験できる。『家を継ぎ接ぐ』も「女一人こう生きていくべき」というライフスタイルの提唱が目的だと書き方は全然違ったと思います。だけど、私は「こんな平たい道でコケるのは私だけですか?誰か仲間はいないの?」ということを世界に向けて聞きたかったから、その道の平たさとかコケる痛さとかを共有したかった。ただし、一人の女性の独白を生々しく書いたら、とても人が飲み込めるものにはならないと思うんですよ。ちょっと気持ち悪いというか。特にネガティブな気持ちを情報として人にまるごと飲み込ませるのは暴力的なことだと、私は広報の仕事をしていて思うので、「どこかにいるかもしれない誰かの話」ぐらいの距離感を大切にしました。そうして1テーマ1記事で、だである調で、一人称かつ匿名で書いてきたんですが、結果的にそれが「物を語る」手触りの文章になった……ということなのかも。最初からすごく狙ったわけではないんです。

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参加者2:アルス・ノヴァに通っている娘の親です。半年前に家を建てて引越しをしたんですが、私は人が来る家に憧れていて、娘も人が泊まりに来るのが大好きなんです。泊まりに来てくださいと言うのは苦手なので、自然に来たくなるようなノウハウを教えてください。

中田:うちの場合は、一度来ると帰るのが面倒な遠さにあるから、泊まっちゃおうかなとなるんだと思います。そして、泊まりに来た人が他にもいると知れば、泊まりに来やすいので、宿泊者のアーカイブみたいなものがあるといいのかもしれません。
 以前、友人に誘われた京都旅行で出会った人たちが、同窓会と言って京都からうちに泊まりに来たことがありました。普通、家に泊まるのってもっと親しい人ですよね。一度しか会ったことのない人たちばかりだったので不思議でした。旅行という体験を一度共有にしている間柄だったからなのかな。泊まりに行って、お返しに泊まりに来てもらうのも手かもしれないですね。

参加者3:中田さんの周りの方は先進的なイメージがありますが、家族の話をしても共感されないかもしれないという不安があったという話が意外でした。それから、こんなに外の世界とも関わりがあって、弟さんと暮らしていて友達も来てくれて楽しそうなのに、寂しさがあるというのが意外です。それってどんな寂しさなんですか。

中田:仕事で新しいことに取り組んでいるのと、先進的な家族観を持っているかどうかは別だと思うんですよ。私の家族観が先進的だとは思っていませんが、メジャーじゃないことは承知しています。20代の頃は、思想、宗教、政治の話は、広報として色がつくから避けてきました。そして家族観もあまり口にしないほうがいいなと思っていました。それは、人生について話した時に、同世代の女性に否定されることがわりと多かったから。近いからこそ異なる考えを持っていたときに傷つきやすいのが、家族観かもしれないです。もちろん相手も傷つけたくないから、『家を継ぎ接ぐ』でもそのあたりの明かし方は慎重にしています。
 寂しさがどういう種類のものかというのは難しいですね。なぜなら他の人の寂しさの種類をそんなに知らないから。友人と一緒にご飯を食べたり、弟と映画や美術の話ができるのは、寂しくないんですけど、何でしょうね……。そういえば、割と毒舌な弟に「姉は幸福の胃下垂だから、いくら食べても満腹にならないみたいに、誰かと一緒にいることを幸福だと感知できないのかも」と言われて、そんな根の深いことを言われると対処のしようがないなと思いました。うまい表現ですけど。私にとっても私の寂しさは謎めいたままです。

ササキ:その寂しさを表出した時に、それに共感する人も寂しさを表出することで、寂しさが埋もれていくというのもとても印象的でした。打ち合わせの時に、微かにずれる「微ずれ」というワードが出ました。著しく他者と違う属性を持っていたら、その違いを当事者同士でシェアすることは簡単かもしれないけれど、微妙にずれあっているのはシェアしにくいという話でしたね。

中田:そうですね。ほんのちょっとずれる、ほんのちょっと違うということを口に出すのは、わざわざ断絶をつくるようで難しいなと思います。孤独で過ごしているわけでもないし、仕事ですごく困っているわけでもないけれど、でも何かちょっと違うという感覚はたぶん誰でも感じていること。私が特殊というわけではないとも思います。ただ、そういうことまで言葉にして書いちゃうところが、「微ずれ」系なんだろうなと自覚しています。

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参加者4:福島県いわき市から来ました。田舎に行くと、新しいコミュニティをつくるのがわりと難しくて、特に移住者は、手っ取り早く生活するために家族をつくることが推奨されます。夫や妻の家族と家計を一緒にして親の世話になるから、田舎は東京よりも豊かな暮らしができるかもしれない。子どもの面倒も両親プラス祖父母で見られますよというふうに、家族を補強する政策がなされています。今後そういうのが進むと、特に地方の場合は家族にこれだけメリットがあるんだから、生きにくさも家族で解消してねということになっていくんだろうなと。中田さんのお話から見える社会の世相や課題は、私のやっていることにも関わるのかなと思いました。

中田:おっしゃるとおり、いろんな事情があって家族を持てなかったり持たなかったりする人もいる社会で、家族単位で処理しなさいというプレッシャーを感じる場面も増えてきました。法律の改正でも家族に関する項目の書き換えが検討されていると聞いて、危機感を持っています。社会の流れとしては、誰とどこでどう暮らして生きていくのかは、どんどん選択肢が増えてもいいと思うんですが、どうも逆向きの風が吹きつつある気がして。それはきっと、家族というユニットをつくると管理がしやすいからですよね。そこに対して抜け道がほしいと私は思います。だから、家族単位で責任を負わなくても、場所や関係性や責任を分有したり組み替えたりしながら生きていく実例を自分の生活でつくりたい。『家を継ぎ接ぐ』の起点はとても個人的なことで、その実践もただ暮らすばかりで社会的なアクションとは言いがたいサイズですが、実例という「話」をつくり、届けることならできると思っています。私は、実行しきれない大きな言葉よりも、具体的で小さな実践を大切にしたい。
 あと、この暮らし自体に新規性があるわけではないのですが、私には物語にして人に共有する技術はあるので、その手段を分け合うこともしてみたいです。編集や広報を仕事にしていなくても、みんながそれぞれの「話」をそれぞれの人生のために編む力を持てたとしたら……。つまり、心の中のざらついたものを相手が食べられるサイズに切り出して、言葉でも写真でも動画でもいいので伝えて、届けたい人にうまく届ける技術。仲間を探し出す技術。そういうものを一人ひとりが持てたら、家族の話に限らず、もう少し生きやすくなるかもしれない。そういったことにも今後取り組めたらいいなと考えています。

参加者4:生きづらさを抱えている人たちの寄り所をつくるということではなく、個人の違和感を言葉にしていくことによって、ちゃんと人に届けばいいし、そこが小さな場になっていくということですね。

(了)

ゲストプロフィール

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中田一会(きてん企画室主宰)
1984年生まれ、武蔵野美術大学芸術文化学科卒業。IT関連出版社の企画編集をはじめ、企業広報やブランディングなどを手がけた後、2010年より公益財団法人東京都歴史文化財団アーツカウンシル東京に所属し、地域で文化芸術活動の可能性を広げる取組みに関わる。2018年からフリーランスの広報コミュニケーションプランナーとして独立し、「きてん企画室」を設立。伝えることを見つめ直した広報戦略設計や企画制作を手がける。また、2014年頃より個人活動として記録やアーカイブにまつわる勉強会を複数開催。「家を継ぎ接ぐ」も当初、個人的な記録活動の一環として匿名で始めた。
きてん企画室 https://ki-ten.com/

[補記]

後日、ゲストの中田一会さんがウェブサイト『巣をつくる』にて、たけし文化センター滞在のことや今回のトークの前後について、綴ってくださいました。


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