魂の救済とは?

宗教的な話です。
といっても、勧誘しようとか神を信じなさいとかそういうつもりはないので、安心して下さい。だから、まず夢も希望もない話をしておきます。全ての宗教は、必要があって作り出した創作物です。従って神様も仏様もすべて設定されたキャラクターに過ぎません。

ではなぜ人々はそんなものを信じるのでしょう?それは必要だったからです。魂の救済のために。

はて?魂の救済とはなんぞや?と訝しむ方も多いと思います。ボクも昨年の今頃はさっぱり分からなかったし、考えもしなかったのですから、それが普通です。前にも書いた通り、配偶者でもあり仕事のパートナーでもあり、人生の同志でもあったみなみ先生を喪ってから、ボクは色褪せた世界の住人になりました。でもだからこそ気づけたこともいくつかあって、魂の救済もその一つなのです。

みなみ先生は、医者恐怖症と同時に、がん恐怖症でした。でも子宮頸がんの検査を下北沢の病院に受けに行くときは、だいじょうぶだったのです。
そこで大きな子宮筋腫が見つかり、北里大学で検査をすることになったのですが、そこで二つの恐怖症に罹患したのです。

CTに入るのが怖いと訴えると「あんたガンだったら死ぬよ!」と怒鳴られ、他の検査でも痛いとか怖いとか訴えても聞いてもらえず、ガンだったらどうしよう、私死んじゃうの?と、怯えて帰ってきたのです。

その日を境に、どこか少しでも痛みを感じると「ガン?ねえあたしガンなの?」と聞いてくるようになりました。
その度に否定するのだけど、もし安心したいのなら検査受けるしかないよって促すと「イヤっ!」って言うし、ヘタをするとパニックになるのです。
北里大学で起きたことは聞いてはいたけど、その時の内心は聞いてはいなかったのです。それは緩和ケアの小野寺先生に告白したのですが、家畜のように扱われて、惨めだったというものでした。

そんなとき、お店の同僚で親友の林不二子さんが直腸ガンで入院して、わずか半年でこの世を去りました。
旦那さんはアメリカ人で、ボクらは月に一度はなんやかんやで会っていたのに、かける言葉もないし、とても辛そうで見ていられませんでした。

その頃が一番ガン恐怖症がひどかったのだけれど、そんなときにみなみ先生の左胸の乳首に、少し硬い痼が現れたのです。
心配するみなみ先生。
症例を検索するオレ。
乳腺症?なんか違うっぽいけど、可能性は捨てきれない。
もしガンでも今なら初期だからなんとかなるかも……と検査を勧めるも……「怖いっ!もし本当にガンだったら!」
「大丈夫だよ、いまなら早期発見だよ。治るって」
「でもふーちゃんは治らなかったじゃない!」

そういうやり取りを何度か繰り返し、これでは埒があかないと、なぜ病気や病院が怖いのか?精神面からアプローチを試みようと、駅前の心療内科に行ってみたのですが、みなみ先生の担当になった医者が、またテキトーなヤツで「僕の仕事は患者さんの話を聞いて薬を出すことですから」だというのです…

他にも自由診療で1時間一万円という心療内科もあったけど、数回メールでやり取りした結果「奥様から精神的に独立してあなたはあなたの人生を…」みたいな感じだったので、みなみ先生の病気恐怖症には役に立たないと判断して、継続を打ち切りました。
いまそれを言われれば分かるけどねえ…

手詰まりです。
あとは本人が自覚するしかない。
時々促してはみるものの「考えとく」と、返事は決まっていた。やがて乳首は黒ずみ、乳房も陥ち窪んでいきました
毎晩一緒に風呂に入りながらボクは確信したのです。
「間違いなく乳がんだ……」

多分2010年頃には、もうその確信はついていたでしょう。
だがあまりキツく医者に行こうと言うとみなみ先生はパニックになるし、誰にも相談できませんでした。
一度だけ「本当にヤバいって思ったらケン兄がなんとかしてくれるよね?」だから安心なんだという顔をされたけど、なんとかするってなんだよ……
何にもできないよ。その胸のガンに対して。オレは医者でもないし、キミを病院に連れていくことすらできやしないじゃないか。

南澤家ではなんとなくガンの話題は避けられるようになっていきました。
みなみ先生は安保徹氏の本に巡り合い、免疫力を上げる生活を始め、スピリチュアルを楽しむようになります。

とまあざっとこんな流れだったんです。そしてスピリチュアルでは、なぜかESPカードはバンバン当てるわ、様々優秀な面を見せつけるのです。でもそれで良かったんだなあ。
スピリチュアルは宗教とは違うけど、夢を持って死ねるって大事だと思うのです。

いま日本の神道も仏教も、生きて苦しんでる人に何もしない。災害がおおいからと大仏も建立しないでしょ?いや…正直要らんけど。
例えば炊き出しをやっているのは、NGOとかNPOとかの人たちか、キリスト教系の団体。
神道は人の死に触れないし、仏教は葬式のためだけに存在するようなもの。

死んでもまだ極楽行きか地獄行きが待ってるとか、イヤじゃないですか?
安心して死ねないもの。
生きてる時はなにもしてくれなくて、誰か死んだらやってきて、お経詠んだだけで10万円とかふざけんな!って感じですよね。ただこのことから分かるように、日本人は死者の供養をすることが、魂の救済だと勘違いしているんです。

違いますよ。

終末医療で使われるホスピスって、もともとヨーロッパ発祥で街道の要所要所にあった教会で、巡礼に出た旅人の疲れやケガ、病気の治療をするためのものだったんです。
つまりホスピタルの語源なんです、

宗教は戦争にもなるけど、天国や楽園が保証されてるとなれば、安心して死ねるというものです。怖いけど。そしてキリスト教が国教の国の軍隊では、戦争になると後方の病院には神父や牧師が、必ずいるのです。
死に行く人にあなたは天国に行けますよと、保証するために。
欺瞞でもまやかしでも、魂の救済のために必要なのです。

人は誰しも死ぬのはイヤだし、怖い。
初めてだし、大抵はキツく苦しい。
そういう時に、せめて設定でも行き先を照らしてあげるというのは、とても大事なことで、そしてそれを必要としている人を笑ってはいけないのです
鰯の頭でもいい。
信じてる人の方が、最期に勝つんです。

ボクが死というものに恐怖をあまり感じなくなったのは、人は安らかに死ねるんだと在宅ターミナルケアを通じて知ったのがすごく大きいんです。
そして死んだらみなみ先生に会えるかどうかは分かんないけど、少なくとも『死ぬ』っていう、同じ事ができるってことが、ボクの魂の救済になると分かったからなんです。

信じなさい、信じる者は救われるってのは、なんだか誤魔化しのように長いこと感じていたけど、神父や牧師からしてみれば、信じてくれなきゃ死に行く魂を救いようがないんです。

義父滝沢解は、晩年仏教研究に傾倒していて世話になった僧侶に「お前の下手な経など、死んでも要らんからな」とホスピスでモルヒネでご機嫌になりながら逝きました
そしてみなみ先生は「スピを学び始めてから、死ぬのが怖くなくなった」と、あんなにガンを怖がってたのがウソのように足掻くこともなく逝きました。

二人とも諦めの境地とはなにか違う、むしろ悟りや希望のようなものすら感じさせる父娘の死において魂の救済をせしめたものは、緩和ケアと信仰心ではないかと思うのです。
その信仰心とは、既存の宗教へのものとは限りません。ボクは宗教とはなにか?と問われたら「まだ見ぬ明日を照らす道標」と答える。

宗教は、神なり仏なりを人々がお互いに信じる努力をして成立するのだけれど、神仏はココに御座しますという側がそういう努力をするどころか、集金システムとしてしか機能していない現状では、信じてもいいかな?という気にもなれません。

災害で人々が困難に陥ったとき、迷ったときこそ神仏の出番ではないでしょうか?人々が生き精進するためには、明日を生きる糧がいる。歴史を紐解けば、民を救うのは誰か?ということも含めて、時の権力者と仏教界の鍔迫り合いがありました。幕末から明治にかけての廃仏毀釈により、仏教は滅びかけそこから観光を期に蘇ったのですが、そこに残ったのは信仰心ではなくご利益による集金だけでした。

一方政府公認の神道といえば、靖国招魂社を頂点とする神社による国家統一システムを完成させ、少しは死というものを扱うようにはなりましたが、国に殉じた者の魂しか入れないという選抜式でした。それ故に死んでも家族配偶者と一つになれないという魅力を欠く代物で、元は侍だった人の発想だろう。ただ太平洋戦争の末期のみ「靖国で会おう」と誓いあった軍人の魂の救済をしたことはあります。

日本と日本人は、文明開化を期に神仏を分け国の恣にしたことで、宗教も民も信仰心を保つ努力を捨てました。しかしキリスト教は、科学の発展と神の存在に、上手く折り合いをつけ、ホスピスを現代に見事に蘇らせてみせたのです。

日本にホスピスを持ち込んだのも、大阪の淀川キリスト病院。日本からはホスピスのような発想は生まれませんでした。1973年頃といえば『白い巨塔』のようにガンはとにかく切れの時代です。
生きてる時も施しをしたり、必ず天国へ行けると安心させ、ホスピスもある。キリスト教の懐の広さと、生活への浸透度をボクは思い知りました。

そうして考えると現代日本において、もっともまだ見ぬ明日を照らす道標として機能しているのは、キリスト教しかないのです。
それでもキリスト教徒にはなれない。シンパシーは持っていますが、ボクは神の存在を疑っているからです。ついでに言えば、死後の世界も疑っています。もしあるとしても「わたくし」という意識のない世界であろうと想像しています。そうでなければわざわざ死ぬ意味がないでしょう?

死んでなお「わたくし」という意識に縛られていたら、死後の世界でも争いが続いてしまいますよね。そういう死生観に一番近いのはスピリチュアルだよとみなみ先生は言いました。であるなら、これからもみなみ先生を信じてみようと思ったのです。わたしはたった一人のみなみ教の信徒として生きよう。一人一派でも、そこに信仰心があれば、明日を照らす道標となり、それは立派な宗教なのですから。


追記
七月の末、友人たちと那須アルパカ牧場に行った日、ドリーン・バーチューが天使ビジネスから手を引くというニュースが飛び込んできました。そこでスピリチュアルの真偽の議論に加わるきなんてありません。
ただみなみ先生の死への恐怖を取り除き、魂の救済を行ったのは事実なのだから、その事実だけで充分でしょう。だからドリーン・バーチューには感謝しています。






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