高畑淳子さんを通して見えるボクたち。
ボクの見えている範囲では、高畑淳子さんに同情的な人が多く、また被害女性に落ち度があるかのような発言をする人はいないのでホッとする半面、逆の考え方をする人のRTは届いていて、やっぱりなぁと肩を落としています。
この件については、小川たまかさんが書かれているこの記事は素晴らしいなと感じます。
一部の性犯罪報道 被害者の容姿について、なぜ報じるのですか?
そしてワイドショーを賑わす事件が起きると、必ず発生するのが「親の顔が見たい」という声です。そんな声に応えなくていいのに……とボクはいつも感じていますが、そうもいかないのでしょう。今回はお母様が芸能人であるということで、会見の場が設けらました。
その件については、この記事がすばらしいと感じました。こちらをご一読いただきたいと思います。
結局のところ相互フォローしている中で1番多い意見が「マスコミはヒドイ」です。
ボクもそう感じるのですが、ちょっとボクはそこでひねくれてしまって、じゃあ皆のその嫌悪感をそのままマスコミにぶつけていって反映された結果「分かりました。そういう事は訊かないことにしましょう」となっていったら、例えば政治家といえどもこんなことを訊くのは失礼じゃない?とか、いろいろ慮りすぎてしまって、それはそれでまた困っちゃうなぁという気がして、なかなか塩梅って難しいよね?じゃあそれをみんなで考えていきましょうっていう、池上さん的な答えしか置けなくなってしまうのです。
とはいえ、マスコミ……今回の場合社会部と芸能部がごっちゃになって報道しているので、その境目が難しくなってしまっていますが、加害者が芸能人であるため芸能部が主導しているように感じられます。
こういう質問をするのは、ある種「そのほうが売れる」と大衆に迎合していった結果でもあります。その結果信頼性も失い、修正史観やデマ、都市伝説すら否定できなくなり、ネット発信情報こそ正義という価値観を作り出してしまったとも言えます。
大衆に迎合することが、なぜ信頼性を失うのでしょう?
ちょっとおかしいですよね?
みんなが求める答えをそこに置いているにも関わらず。
「高畑淳子さんを責めても何も解決しない」
全くその通りですが、「親の顔が見てみたい」は、言わないまでも耳にしちゃいますよね……
やっぱりこれこそが加害者の血縁を責める感覚の正体ですよね。
実際に重大事件の加害者の血縁者は、自殺されたり、自殺未遂をしたりということが多いのです。アパートの入居を断られたり、結婚が破談になったりもします。
自分はそうは考えないが、そう考える人もいますし、なにかあったら自分だってこういうことを口にしてしまうかもしれません。
その一言を直接その人にぶつけなくとも、そういう考え方が一般的にあるということ自体が、加害者の血縁を苦しめることになるのです。
また小川たまかさんがフォーカスする「一部の性犯罪報道 被害者の容姿について、なぜ報じるのですか?」という問題は、それを報じることに意味があるもしくは知りたいと思っている人たちがいるから報じるという考えがマスコミ側にあるから発生します。
記事ではそれは被害者へのセカンドレイプになるからやめようと訴えています、ボクも賛成です。
ただこの問題は芸能部から発生したものではなく、レイプ事件の裁判から発生しているものなのです。つまり社会部です。
裁判というのは事実を詳らかにしなければならないという原則から、被害者に対してとてもお気の毒なことを訊かねばならない時があります。性的犯罪の被害者が証言する時に覆いをつけられるようになったのは、割と最近のことなのです。
またAV出演を強要された事件や、痴漢問題などもそうですが、性的な事件が起きるたびに好奇な視線に晒されることも問題です。
ボクは性的被害者の情報は要らないと考えますが、ある女性編集者は「でも本当は知りたいですよね?」といいました。
「えー?」と耳を疑いましたが、これもひとつの大衆の意見です。
考えてみれば大手の出版社の中でも、マンガの編集部と小説の編集部でも事件事故に対する考え方は違うし、男性向け週刊誌や女性向け週刊誌、ファッション誌やオピニオン誌それぞれで全く向いている方向が違うのが当たり前なのです。
出版社を一人の人格として捉えると、ボクも大衆のひとりとして
「大衆とは様々な層や考え方の違いがあって、その時々に違うことを言うものだから、信頼の置けないものであるなぁ」と感じてしまうのです。
よく政界には鵺がいると言われますが、ボクはこの鵺の正体こそが大衆ではないかと考えるのです。
代議士というのは、ボクたちの代わりに議論をしてくれる人なわけです。
それぞれの地域社会の代表者として、本当ならボクたちが考えなくてはならないことを、専ら考え実行してくれる人でなくてはならないし、そういう人を選ばなくてはなりません。
だから民主政治というのは、ボクたちの考えの拡張器官たる代議士の議論と議決によって運営されるわけです。
また先述のマスコミは、ボクたちの持つある種の考え方をすくい取って、その目線から記事を書く、これまたボクらの拡張器官であるとも考えられます。
たまたま考え方が一致した時は「イイね!」と感じて笑い、一致しない時は「ヒドイね!」と怒る。まったく人間的な感覚を拡張したものにすぎないわけですから、そもそも全幅の信頼などおいてはいけないのです。
ボクたちは言葉にはしないけれど、そういうことを体感的にわかっていて、だから大衆に迎合するということは、日和見の風見鶏になってしまっていると感じるわけです。
つまり筋が通っていないから信頼されないという、ごく当たり前のことなんですね。で、拡張器官である彼らが信頼出来ないということは、結果としてボクたちも相互に信頼が置けないということになるわけです。
はぁ……結局誰とかじゃなく、ボクたちの問題なのです。
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