大正デモクラシーへの道(中編)

日比谷焼討事件が起きたには明治38年(1905年)でしたが、最近読んだ本にはこれを大正デモクラシーの始まりとするという記述がありました。(『大正を読みなおす』子安宣邦著)

最初「?」って首を傾げました。

明治は明治45年7月30日までのはずです。大正時代までまだ7年あります。

しかし前編でも述べたように、この日比谷焼打事件で日本は一時無政府状態に陥ったのです。実はこれが大正デモクラシーと大いに関係があるのです。

そこから5年後明治43年(1910年)幸徳秋水らによって「大逆事件」が起きるのですが、簡単にいえば明治天皇に爆弾を投げつけてやろうと計画していたのが未然に発覚したので関係者を逮捕し、死刑にしたという事件です。

この主犯とされる幸徳秋水は、社会主義者であったとされています。しかし逮捕されると新聞には無政府主義者とか無政府共産主義者であるとか、段々と凶悪な印象の言葉が踊り始めます。これは新聞が、その意味も分からぬまま報道をエスカレートさせていった結果でした。

当初東京地検は本件は7人をもって塁連ナシといっていたのですが、東京朝日新聞や幾つかの新聞が捜査側に乗っかるカタチで「社会主義者狩り」が始まり、最終的には24名が逮捕、起訴され、うち12名が死刑に処され、残り12名は無期懲役刑となりました。

無論誰に対してであれ危害を加えるのは良くないことですが、幸徳秋水らの動機は「やむを得ないことだがここまできたら天皇に怪我を負わせ流血でもさせることで『天皇も人間』であることを大衆に分からせないといけないのかもしれない」という半ば消極的な選択だったのです。

また、かの有名な石川啄木が『A LETTER FROM PRISON』 という幸徳秋水から送られた手紙を紹介していて、現在青空文庫にて無料で読めます。これを読むと無政府主義というのは実は議会を経ない「直接行動」であることが分かります。

これは「一君万民」の「一君」を無くし、「万民」が平等に政治に参加できるべきだという点では、西郷隆盛が考えたもの以上のものです。当時にしろ現在にしろ受け入れるか否かは難しい問題ですが、今風に考えればインターネットを用いた直接民主政治のようなものを目指していたのではないか?という気すらしてきます。

明治44年(1911年)1月18日に大審院は幸徳秋水ら12名に死刑判決を言い渡し、1月24日までに全員が死刑に処されます。


余談ですが、拘置所から裁判所へ向かう車列を、永井荷風は当時建設中の四谷大橋の近くから眺めていたのだそうです。

そして日露戦争で負けたロシアでも革命が始まろうとしています。

大きな民衆、つまり大衆が動き出そうとしています。それが明治から大正へと変わろうとする時代の空気だったと言えなくもありません。


そしてもう一方の一君である天皇については、同時に「天皇主権説」と「天皇機関説」という激論が始まろうとしていたのです。(続く)

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