大正デモクラシーへの道(前編)
明治10年(1877年)に西南戦争がなんで起きたかってのが、学校で歴史を習ってた時ピンと来なくて…いや、薩長仲良くやってたやん!って疑問に感じつつも「とりあえずそういうことがあった」ということで試験は乗り越えたわけですよ、田原坂。
最近になって読んだ本で、薩長連合というのは江戸幕府を倒したというか退いてもらい「一君万民」つまり天皇を中心とし残りは平等という思想に基づいて動いていたのだと知りました。
これはフランスの「革命(レボリューション)」と比べると一歩後退一歩前進という「刷新(リストラクション)」くらいになるのだそうです。
だって西洋ではおまえちょっと下がれって言われ始めた頃に、王様を担ぎ出すわけですから今更かよ!?ってな部分もあったわけです。
結果として華族や士族も残り、西郷さんは「これは約束が違うでごわす」と怒ってしまい反旗を翻したのですね。
かくして西郷さんは逆賊となり、靖国神社には祀られておりもはん。
そこから17年が経ち、明治27年(1894年)日清戦争が起きます。
日清戦争っていったって主な戦場は朝鮮半島なのですが、まぁそれはちょっと置いておきましょう。中国は自国領内と言っていますし。
このころの軍隊は徴兵なんですが、長男は兵役が免除されていたので、養子縁組をして徴兵を逃れるなどの庶民の知恵はあったものの、さすがに段々とそういう裏ワザも使えなくなり、政治家や地位の高い人はどうか知りませんが、一般庶民は徴兵されてゆくようになります。
徴兵される人はたまったもんじゃあありませんが、しかし当時農家の次男坊や三男坊というのは、ほんとうに社会的立場がなく、土地も持てないので長男の作男(小間使いのようなもの)として働くしかありませんでした。
それがいい悪いかは別として「お国のために戦える」というポジションを得たのです。
この状況は太平洋戦争が終わり農地改革がされるまで続きます。
中学生の時に観たっきりですが「拝啓天皇陛下様」という映画では「この戦争が終わったらオレはまた農家の次男坊に逆戻りだ。それに比べたら軍隊は天国だ。だからどうか戦争を終わらせないでくれ」という手紙を天皇陛下宛に出そうとする男(演:渥美清)の姿が描かれます。
清に勝った日本は、約3億円の賠償金や台湾、遼東半島を手にしますが三国干渉によりたった6日で遼東半島を手放す羽目になります
さてそこから10年が経ち明治37年(1904年)日露戦争が起きます。
起きますっていったって、突然始まったわけではなく小競り合いなどもたくさんあったわけで軍事費はかさんでいきます。
とくに三国干渉で手放した遼東半島は、再び戦場となります。
日露戦争には並々ならぬカネがかかっており、特別徴収税などがあり、国庫の計6年分が費やされます。ある年度の会計を見たら歳出の8割が戦費でした。
日露戦争が始まって二週間。一年は戦えるはずと備蓄されていた弾薬があっという間に底をついてしまいました。そこで当時日英同盟を結んでいたイギリスから大量の弾薬を輸入します。ロシアと同盟を結んでいたドイツからも武器弾薬を輸入します。
なりふりかまってられない状態です。負けたら後がない。
イギリスだってバルチック艦隊に燃料を売ります。
しかしちょっと質の悪い石炭を売ってくれたおかげで、遠くから黒煙が確認できバルチック艦隊の動きは日本にモロわかりだったのです。
アメリカの働きかけでポーツマス条約で講和を得た日本は、朝鮮半島と南満州鉄道を獲得し満州の権益を獲得しますが、賠償金は0でした。本当はロシアから50億円くらいぶん取ってやろうと画策していたのに、ロシアは自国領内の戦争ではないことを盾に賠償金の支払いを拒否ったんです。
そのことが国庫を圧迫します。
戦時国債を買ってもらっていたアメリカの銀行家シフに、莫大な金利を払い続けねばなりません。アメリカはこの戦争で中国への権益も手にすることができホクホクです。
しかし戦争の当事者たる日本は、勝っても勝っても豊かになれない。
当たり前です。
軍にばっかりお金がかかり、農民は極貧、町民も重税でひぃひぃ言っています。そんなわけでこの頃は、軍人さんは穀潰しと嫌われていたのです。
その反面で、豊かになった人たちがいます。
一部の財閥や成金です。
その不満から起きたのが明治38年(1905年)の日比谷焼打事件です。
この暴動には国会議員も参加しており、国民新聞社は焼かれるわ内務大臣私邸には抜刀した暴徒が押し寄せるわで、一時日本は無政府状態となります。
しかし実はこれが後に言われる「大正デモクラシー」の始まりだったのです。
(続く)
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