大正デモクラシーへの道(後編)

かくして明治時代は45年(1912年)7月30日をもって終わり、7月31日から大正元年となります。以前日が被っていると書きましたが誤りでした。官報を調べてみたら、7月30日は明治45年付けで発行されてました。訂正します。


一時的に無政府状態になった明治38年、そして明治43年幸徳秋水事件のショック。江戸幕府が倒れたように明治政府だって…という感覚は、当時の人にとっては案外リアルだったのではないでしょうか?


そして大正3年(1914年)には第一次世界大戦が始まります。

日本も日英同盟の立場から参戦し、ドイツ領であった青島攻略や南洋の島々、また地中海に第二特務艦隊を派遣したりしています。

この戦争はおもに戦場がヨーロッパであったため、日本には工業製品の製造などの注文が増え好景気をもたらします。

ところが好景気は良いことばかりではなく、インフレを起こし米価が高騰します。たった数年で米価は二倍に跳ね上がります。

いまのように豊かではなかった日本では、当然米を買えなくなる人が続出します。
代用品としてパンが人気となり、パンなら何でも売れたのだそうです。当時の白米信仰は今以上で、帝国海軍に遅れて帝国陸軍でも脚気対策のため週一回を食パンとしたのですが、パンは兵隊からは蛇蝎の如く嫌われたといいます。

しかしパンを食べられる人は、まだ良かった方なのです。

第一次世界大戦はまだ続いていました。日本、イギリス、アメリカなどの連合軍は、ロシア革命で囚われたポーランド兵を解放するために、ウラジオストックへの上陸作戦を立てます。しかしヨーロッパ戦線で手一杯のイギリス・フランスは、日本とアメリカにそれを依頼します。
これが大正7年(1918年)8月から始まった悪名高き「シベリア出兵」です。


それと前後する同年7月23日富山県魚津市で米価高騰に業を煮やした漁民の妻女たちが、他県への米を積みだしを阻止しようと、集団で役所に押しかけました。

それが新聞で全国に伝わると8月初旬には、各地で米価値下げを訴える集団が現れ、投機的米商人を襲撃。中旬以降になるとさらに農村、地方都市、炭鉱地帯にまで広がり、最終的には軍隊まで出動することになりました。

「米騒動」です。


全国での参加者は70万人以上、検挙者2万5千人以上の大騒乱で、寺内首相は「シベリア出兵」と「米騒動への対応の誤り」の責任をとって辞任することになるのですが、この騒乱の特徴は貧しい人々だけでなく、中流以上の階層の人々が参加したことでした。

つまり「大衆による大衆のための騒乱」だったのです。

大衆の声が大きくなれば社会問題となり、政治遂行に影響を及ぼす事ができたのです。大衆によるデモクラシー。これが「大正デモクラシー」の結実だったのです。


大正時代はまだ続きますが、中編で挙げた『大正を読みなおす』(子安宣邦著)によると、ここで大正デモクラシーは終わります。

『大正デモクラシーへの道』という表題でしたが、もうすこし続けますね。

大正にデモクラシーがあったなら、たった数年でなぜ昭和初期の全体主義へつながっていったのだろう?という疑問が生まれてはこないでしょうか?実はボクもずっと不思議だったのです。



先にも述べましたが、政府は存在するものの一時的に機能不全に陥る不安定な状態にありました。これはシステムの不備や予算の不足などいろいろあり、「もっと国をよくしよう」という志を持った様々な人々が市井にはたくさんいたのです。社会主義者だけでなく、国体論者たちもです。


旧制高校へ通うエリートたちも国をなんとかしたいと「煩悶」します。煩悶青年たちの誕生です。北一輝や石原莞爾などが有名です。


そのなかに三井甲之という人物がいます。

大正7年(1918年)に親鸞主義と国粋主義を併せた「祖国礼拝」という長詩を「日本及日本人」という雑誌に発表します。
そして後に「原理日本」というグループを立ち上げ、美濃部達吉らの唱えた「天皇機関説」を猛烈に批判し始めるのです。

日本は天皇という神、それ一君を中心とする国を目指していたはずです。

廃仏毀釈により日本は神の国となり、一時的に仏教は軽んじられ寺院も荒廃しますが、神道は宗教というよりも概念に近く、宗教といえばむしろ仏教だったのです。なによりも日本において仏教は、人間とは、個とは何か、そして世界とは?という論考を一千年以上続けてきた経典の数も学べきれないほどある学問でもあったのです。

その中で彼らは親鸞の「絶対他力」という言葉に注目をします。
簡単にいえば人間の考えなどは小賢しく愚かなもので「絶対他力」の導きに促されていればよいという考え方です。
逆に言えば「自力の否定」であり、自分たちの考えで未来を「こうしよう」と目指す帝國大学教授やマルクス主義者は、この「絶対他力」に反するものということになります。

第一次世界大戦後の不況の中で格差は広がり帝国国民は飢えている。
天皇陛下の大御心によって世界はユートピアであるはずなのに社会は上手く行っていない。これは天皇の大御心が届かないように邪魔をしている何者かがいるに違いない。それが「天皇機関説論者」たちだと狙いを定めたのです。

「天皇機関説」というのは、「天皇主権説」の不備を補うカタチで考えだされたのですが、簡単にいえば「国家=法人と捉えれば君主や、議会や、裁判所は、国家という法人の機関だとみなすことが出来る」というだけのことで、特に天皇の主権を脅かすものではなかったのです。


しかし批判をする庶民のなかには「機関」という言葉をよく分からずに「天皇を機関車に例えるとは何事だ」と勘違いする輩も多かったのです。

第一次世界大戦は大正8年(1918年)には終わり、ロシア帝国も倒れます。本来ポーランド人を解放するために行ったはずのシベリア出兵ですが、大義が失われたまま派兵は続き、内陸へと進行してゆきます。日露戦争で取れなかった賠償金を補うための欲と、日本が権益を取得していた朝鮮半島や南満州に共産主義が根付くのを嫌ったのが理由と言われています。

そして他国は引き揚げたのに、日本だけは大正10年(1920年)まで撤退しませんでした。

このことが後に「日本は大陸に野心あり」と欧州各国に警戒される様になるのです。

大正12年(1923年)9月1日に関東大震災が起き、帝都東京は大打撃を受けます。そして大正15年(1926年)12月25日に大正は終わり、同日が昭和元年となります。

ここで石川啄木著『A LETTER FROM PRISON』から幸徳秋水の言葉を引用します。

”成程無政府主義者中から暗殺者を出したのは事實です。併し夫れは同主義者だから必ず暗殺者たるといふ譯ではありません。暗殺者の出るのは獨り無政府主義者のみでなく、國家社會黨からも、共和黨からも、自由民權論者からも、愛國者からも、勤王家からも澤山出て居ります。是まで暗殺者といへば大抵無政府主義者のやうに誣ひられて、其數も誇大に吹聽されてゐます。現に露國亞歴山二世帝を弑した如きも、無政府黨のやうに言はれますが、アレは今の政友會の人々と同じ民權自由論者であつたのです。實際歴史を調べると、他の諸黨派に比して無政府主義者の暗殺が一番僅少なので、過去五十年許りの間に全世界を通じて十指にも足るまいと思ひます。顧みて彼の勤王家、愛國家を見ますれば、同じ五十年間に、世界でなくて、我日本のみにして殆ど數十人或は數百人を算するではありませんか。單に暗殺者を出したからとて暗殺主義なりと言はば、勤王論、愛國思想ほど激烈な暗殺主義はない筈であります。”

昭和に入ると、まるで幸徳秋水の言葉が予言だったかのように五・十五事件、血盟団事件、二・二六事件と愛国論者たちによるクーデター未遂事件や暗殺事件が起きてゆきます。

無論事件としては裁かれるのですが、大衆にはある種「今の政府には出来ない閉塞感を変えてくれるのでは?」と熱狂をもって迎えられていた部分もあるのです。そして今度も新聞は、それを煽るのです。

天皇陛下を中心に国が一つになれば、バラバラだった今よりマシになるはずだ。大衆はそんなユートピアを夢見始めたのです。仏教と神道も協力し、国家神道へと変貌してゆきます。

そして太平洋戦争が始まる頃には、天皇陛下も主権者としてよりは、否定されたはずの「天皇機関説」を裏付けるようにむしろ法人の一人であるかのように扱われゆきます。


全体主義国家大日本帝国は、そんな世界情勢や大衆の熱狂があってはじめて成立したのです。


(終わり)

参考文献
愛国と信仰の構造』(著:中島岳志、島薗進)
大正を読みなおす』(著:子安宣邦)

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