見出し画像

『罰走』は善か悪か

 今シーズン、自分が所属している大学のサッカー部では「罰走制度」を採用しています。

 罰走制度を採用した理由は2つあります。
1、「走り=嫌なもの」なのでミスの抑止力になる
2、ミスの種類によって連帯責任も加えて採用することでチームに対する当事者意識を育むことができる

 昨シーズンまでは寝坊や遅刻などのミスが多発していたにも関わらず、明確な罰則は設定されておらず、他のカテゴリー練習でボール拾いなどのサポートをある程度の期間行い、部員全員の前で謝罪して許してもらえたら練習や試合に復帰できるというものでした。
 自分は一回もミスしなかったものの、チーム全体を見たときにシーズンを通してミスが減るということはありませんでした。

 そのような経緯で今シーズンは罰走制度を採用することになりました。

 罰走制度を採用してからの成果というと…
新型コロナウイルスの影響によって活動停止期間があったので実質的に活動期間が短いこともありますが、今のところはミスの数は減少しています。

 現在、自粛期間が明けて活動が再開しましたが自分の所属しているカテゴリー内で遅刻が起きてしまい、カテゴリー単位での罰走が採用されることになりました。(←それにあたって走るのが嫌すぎて「罰走」について考え、このnoteを書くに至りました)

 罰走は善か悪か

 罰走に限らず、罰を与えることによる行動の規制はいかがなものなのでしょうか。

 結論から言うと、僕は「罰走は善」と考えています。
 もちろんすべての組織において言えるわけではありませんが、罰による行動の規制は必要だと考えます。
 理由は、主体的ではないものの、罰によって基準を引き上げることができるからです。

 自主性を持っている人が集まった組織にとって罰は無縁のものであるため、「あなたの組織はレベルが低い」と言われると返す言葉はありません。
 
 今もそうですが自分が今まで所属したことがある組織は、基本的に学生で構成されていました。
 ただ、学生と一括りに言っても様々な学生がいて、今すぐ社会に出ても通用する考え方を持っている学生もいれば、自立できておらず平気で遅刻する学生もいます。
 組織において一番簡単なのは、レベルが低い人を切り捨てる、入れないことであり、できる人だけで組織を構成することです。大学入試、就活面接はこれにあたり、ある一定の基準を満たす人のみ受け入れています。

 僕が所属している立教大学サッカー部はセレクションを受けることなく誰でもサッカー部に入部することができます。関東の他大学には、セレクションに受かった人や推薦を受けて入学した人しか入部を認めないサッカー部もあります。
 「誰でもはいれる」ことは立教大学サッカー部のアピールポイントであるとともに難点でもあると思います。
 僕が考える難点とは、「入部人数が多い=様々な基準、価値観を持つ人が存在する」ことによって統制をとることが難しくなることです。
 様々な人で構成される立教大学サッカー部が一つの共通目標を達成するためには、一定レベルまで基準を引き上げる必要があります。

 そこで、基準を引き上げるために適しているのがインセンティブではなく、人の負の気持ちに訴えかけるだと考えます

なぜ罰走なのか

 私達人間は変化より現状維持を良しとする「現状維持バイアス」を持っています。
 「現状維持バイアス」が起こる原因は「何かを失うときの悲しみ」は「何かを得るときの喜び」の2倍強く感じることです。
 このバイアスを利用すると、インセンティブ(ポジティブ)よりも罰(ネガティブ)を与えることでより大きな成果を生み出すことができます。

 最後に

 もちろん罰走もインセンティブも与えることなく各個人が組織にためになることを考え、行動することが一番望ましいですが、なかなか難しいというのが現状です。
 今回のnoteで「僕は基準がある程度高い」という風な書き方をしてきました。書いたからにはミスして組織に迷惑をかけることは決してあってはならないし、プラスの影響をもたらせる人であるべきです。
 自分がどのような形で組織に貢献できるか、するべきなのか考える必要があります。組織を構成する全員が各々の使命を明確に理解した上で行動できたら、その組織は共通目標も達成できるでしょう。

でもまずは、自分から!

読んでいただきありがとうございました。

#現状維持バイアス #大学生 #罰走  
#インセンティブ #note  #俺の敵はだいたい俺です









この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?