日本古代天皇史⑨

ふたたび勃発した後継者問題


 舒明天皇は第1回目の遣唐使派遣(630年)や九重塔を備えた百済大寺を建立して仏教興隆に努めるなど、精力的な政務を行う。だが、在位13年にして崩御すると、王位継承問題は再発。このとき有望なのは、舒明天皇の皇子である古人大兄皇子と異母弟の中大兄皇子、そして山背大兄王である。
 しかし、即位したのは舒明天皇の皇后である皇極天皇だった。
 年齢では山背大兄王が最年長で、次が古人大兄皇子、その次が中大兄皇子。最年少の中大兄皇子は、まだ16歳程度だったとされるため、天皇になるには若すぎる。しかし、舒明天皇を擁立したのと同じ理由で、蝦夷の狙いは古人大兄皇子にある。だが、あからさまに山背大兄王を継承者から外してしまえば、舒明天皇のときに擁立しようとした山背派群臣たちの反発が予想される。
 蝦夷は、父である馬子のような強引なタイプではなく、ある程度は合議制を重んじていたとも考えられる。とはいえ、古人大兄皇子の擁立をめぐり、彦人皇子の系統である押坂王家と提携していた蝦夷にとって、皇位を聖徳太子の系統である上宮王家に譲るわけにはいかない。そこで、苦肉の策として推挙したのが皇極天皇であり、女帝の即位はあくまでも古人大兄皇子即位の芽を摘まないための手段、つまりは中継ぎである。
 だが、皇極天皇が即位した翌年、蝦夷は病床に付し、天皇の許しを得ずに息子の入鹿を大臣とする。これにより、政治の実権は蘇我入鹿に移行。粗暴な性格を持つ入鹿の専横ぶりがエスカレートしていく。
 まず入鹿は、古人大兄皇子を皇位につけるために、目の上のコブである山背大兄王を亡き者にしようとする。643年、入鹿は挙兵して、山背大兄王の住居である斑鳩宮を急襲。大兄王は子弟や妃妾らとともに自害し、上宮王家は滅亡した。
 このことを聞いた蝦夷は激怒し、強く叱責したといわれているが、入鹿の横暴はこれにとどまらない。翌年には邸宅を並び建てて、蝦夷の家を「上の宮門」、自分の家を「谷の宮門」といい、自分の子どもたちを王子と呼んだ。また、皇室行事を独断で代行するなど、目に余る振る舞いを行う。
 この独裁専制ともいえる状況に群臣や皇族の反発は強まり、打倒蘇我の機運は高まる。それを実行に移したのが、中大兄皇子と中臣鎌足だった。
 

反蘇我宗家によるクーデター計画

 中学や高校で日本史の授業を受けるとき、新学期の段階で覚える年号の1つが「645年」かもしれない。この年号を耳にして、40代や50代の人なら「大化の改新」と答えてしまうだろう。しかし、現在の教科書では、この年を「乙巳の変」としている。
 大化の改新とは、中大兄皇子と中臣鎌足が結託して蘇我入鹿を討ち、天皇を中心とした中央集権制を敷いた政治改革をいう。しかし昨今の研究では、入鹿暗殺のクーデターと、その後にはじまる改革とは別のもの、もしくは大化の改新自体が後世の潤色だとする説もあるのだ。
 最初に蘇我の排斥を考えたのは、中大兄皇子ではなく中臣鎌足だといわれている。中臣氏は代々、祭祀をもって天皇家に仕える氏族で政治には縁遠い立場にあった。しかし、鎌足は家業を嫌い、早くから政治家を志していた。
 そんな鎌足は入鹿の横暴に憤慨し、ふたたび天皇を中心とした体制に戻したいと考える。とはいえ、中級氏族の出身である鎌足に蘇我へ対抗するだけの実力はない。そこで目を付けたのが中大兄皇子だった。
 中大兄皇子は舒明天皇と皇極天皇の間に生まれた皇子ではあるが、蝦夷を後ろ盾とする古人大兄皇子がいる限り、天皇になれる可能性は低い。鎌足は、そんな中大兄皇子に、それとなく近づいていく。じつは中大兄皇子の前に、鎌足は敏達天皇の孫で皇極天皇の弟である軽皇子に接近するが、その器量に失望して断念している。
 そんなある日、鎌足は中大兄皇子と法興寺(飛鳥寺)の庭で蹴鞠に興じる機会を得た。そのとき、皇子が鞠を蹴った拍子に革鞋が脱げてしまう。それを見た鎌足は革鞋を拾い、ひざまずいて皇子に捧げ、皇子もひざまずいて受け取る。このときを機に、二人の距離は縮まった。
 中大兄皇子と鎌足はこのころ、隋や唐への留学経験がある学問僧・南淵請安の私塾に通っていた。蹴鞠のとき以来、互いに意気投合した二人は、塾へ向かう道すがらあれこれ会話を交わす。
 このとき鎌足は31歳、皇子は19歳。年長であり頭脳明晰で秀才の誉れが高かったとされる鎌足に、若い皇子は心を許し、二人は入鹿討伐の密議をこらした。その中で、さらに味方を求め、鎌足は蘇我氏の傍系である蘇我倉山田石川麻呂に目をつける。蘇我倉山田氏は蘇我の傍系にあたるが、石川麻呂は宗家の入鹿を疎んでいたのだ。
 鎌足は石川麻呂の長女を皇子の妃とするよう提案し、自身が仲人となって婚約を取り決める。しかし、婚約を果たした夜、長女は石川麻呂の異母弟である蘇我日向に連れ去られてしまう。途方に暮れる石川麻呂。そんな彼に対し、長女の代わりに妃になると次女がいう。この次女が遠智娘で、のちの天智天皇妃であり持統天皇の生母となる。
 波乱はあったが、なんとかメンバーがそろい、この三人が中心となってクーデターは決行された。

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