武器を使わない情報戦―プロパガンダ㉝
キッチン論争をうながしたアメリカの博覧会
アメリカとソ連の両国で開かれた博覧会
米ソ冷戦といっても常に関係を断っていたわけではない。たとえイデオロギーや外交面で対立していたとしても、文化交流は続行すべきとの理念のもと、東西諸国は文化協定を結び関係を保っていたのだ。
米ソ間の交流が本格化したのは、フルシチョフ政権の発足後だ。1958年には「米ソ文化協定」が締結され、その翌年に両国で博覧会を開くことがきまった。それが相手国への影響力を強めるプロパガンダが目的だったとしても、異なる文化を知る機会は意外にあったと言える。ただし、この博覧会が新たな論争を巻き起こすことにもなった。
先手を取ったのはソ連である。1959年6月からニューヨークで開催されたソ連博覧会では、世界初の打ち上げに成功した人工衛星「スプートニク」やソ連製航空機といった最新技術や共産主義社会の功績が紹介された。それによって、アメリカにソ連の技術的先進性と共産主義の優位を知らしめようとしたのである。
一方、アメリカの博覧会は1959年7月。モスクワのソコルニキ公園にて開催されていた。そこで展示されたのは、ソ連とはまるで違うものだった。
たしかに科学や技術に関する展示もあったのだが、博覧会の目玉は別にある。電気洗濯機、最新式の冷蔵庫、カラーテレビ。そういった庶民向けの電化製品や日用品がメインだったのだ。
会場にはアメリカ一般市民の部屋を再現したモデルハウスが設置され、庶民用の乗用車も来場者の注目を集めていた。ポラロイドカメラや食器洗い機もソ連の人々にとっては新鮮で、無料で配られたコーラも彼らの舌を楽しませた。8月までの来場者数は約270万人にも上り、コーラの消費数も300万カップになったという。
ソ連国民に与えたカルチャーショック
こうした「普通の暮らし」の展示がソ連国民には効果的だった。何しろ彼らは何十年もの間、ソ連の情報統制下に置かれていたのである。もっとも厳しいスターリン政権下では、海外の情報は徹底してシャットアウトされたばかりか、電球や特効薬などの発明品はすべてソ連が起源だとも宣伝されていたという。
フルシチョフ政権下では多少緩和されたものの、ソ連の共産主義社会が世界最高と教えられていたことは変わりない。そういった人々に有効なのは、外の真実を見せることだ。
ソ連社会は慢性的にモノが不足し、食料を得るため行列を作ることなど日常茶飯事。家電や車も限られた者の家にしかなく、それすら西側と比較すれば質が悪い。ところが西側、とくにアメリカの一般庶民は少し働くだけで車も家電も手に入り、コーラのような飲食物も普通に楽しめる。
ソ連の市民にとってはまさにカルチャーショックだっただろう。エドゥアルド・イバニアン文化省高官ですら「強いショックを受けた」と証言しているのだから、一般人の衝撃は相当だったことは想像に難くない。
当然ながら、ソ連当局がこれを認めるわけにはいかない。機関紙「プラウダ」を通じて展示を批判しただけでなく、政府高官同士の論争も巻き起こったのである。
フルシチョフとニクソンのキッチン論争
博覧会当時、ソ連には副大統領を中心としたアメリカの使節団も派遣されていた。この副大統領が、のちに第37代大統領となるリチャード・ニクソンである。
ニクソンとフルシチョフ第一書記との直接対談は滞在中4回行われ、博覧会の話題が出たのは2回目と3回目のことだ。このうち有名なのが、モデルルームで行われた3回目の討論である。
7月25日、キッチンを模したモデルルームを見学したフルシチョフは、同行するニクソンに「必需品に力を入れるソ連と違い、アメリカは贅沢品にばかり夢中だ」と批判した。これに対しニクソンは「カリフォルニアの普通の家庭がモデルだ」と反論。「キッチン論争」と呼ばれる両者のやり取りは、アメリカでは即日、ソ連では検閲ののち翌々日に放送されて、大きな反響を呼んだ。
論争は米ソ協力の加速という結論に落ち着いたものの、消費社会の実態はソ連に大きな衝撃をもたらしたのである。
そんな博覧会を観察していた国がある。イギリスのレイリー大使は外相への報告の中で、ソ連の大衆がアメリカの消費財に強い関心を示していたことを主張。来場者の大半はアメリカの具体的な発展と生活の多用さを目にして、極めて魅力的に映ったに違いないと結論付けていた。
イギリスは60年代より大衆文化の広報をプロパガンダに組み込んでいくが、アメリカ博覧会の成功に影響された可能性も大いにあるだろう。いわば、米英プロパガンダにおける重要な分岐点だったともいえる。