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戦前のラジオ番組から一般的に

大晦日の夜、厳かに響く鐘の音を聞き、年の終わりや始まりを実感する人も多いだろう。そこには、「ハッピー・ニュー・イヤー!」との歓声をあげながら、大騒ぎをする雰囲気とは異なる、「これぞ日本のお正月」という風情がある。
しかし近年、そんな「除夜の鐘」の風景が様変わりしようとしている。原因は寺の近所に住む人たちからのクレームだ。
メディアの報道によると、年をはさむ午前0時頃につかれる鐘の音を「騒音」ととらえ、苦情を訴える声があるとする。これを受けて、深夜ではなく夕方にずらしたり、もしくは除夜の鐘そのものを中止したりする寺も出てきた。
また苦情がなくとも、寺で働く人の高齢化や人材不足で、夜に鐘をつく人の確保が難しくなったという事情もあるようだ。
そんな除夜の鐘の由来には諸説あり、宋の時代の中国に始まり、それが日本に伝わったというのが有力だ。鐘(梵鐘)の起源は、仏教発祥の地であるインドではなく古代中国と考えられ、さらに宋の時代には毎月末に108回つかれていたという。それがやがて大晦日だけに限定され、日本でも踏襲されたとの考え方がある。
108回の根拠は、人間の煩悩の数は108あり、その数を除夜につくことで打ち払うというもの。また、12か月、二十四節気、七十二候を足した108で1年間を表すという説もある。ただ、この回数は寺によってまちまちで、200回以上つくところも存在する。
この風習は江戸時代になって広まったとされ、中期の川柳には「百八のかね算用や寝られぬ夜」というものがあり、これは当時のツケ払いが年末に行われていたことに対する庶民の悩みを表現している。さらに後期には、現在の宮城県にあった千住院の住職が、「どう聞いてみても恋なし除夜の鐘」という句を詠んでいることから、江戸時代全般にわたって除夜の鐘がつかれていたことは間違いないだろう。
 ただし、江戸時代の除夜の鐘が、現在のように深夜につかれていたとは考えられない、とする説がある。
 江戸時代の1日は夜明けから始まり日没で終わる「不定時法」だったので、季節によって1日の長さが変わる。現在の感覚である「午前0時から午後12時」ではない。
当時、鐘は時刻を報せる時計の役割も担っていたが、つくのは「明け六つ」「昼九つ」「暮れ六つ」の3回だったところが多い。深夜に起きている人はほとんどなく、そんな時間に鐘をつくのは、それこそ「騒音」になってしまうのだ。
つまり、除夜の鐘も日が変わる「明け六つ」につかれていた可能性は高い。いまでいう午前6時から7時ごろだろうか。
さらに1924年の『東京朝日新聞』には、長年鐘つきを務めてきたとされる老人が「時の鐘を撞いてゐるんだから特別に除夜の鐘ナンか撞いて居られやしませんやね」「除夜の鐘はつきません、時の鐘をついてゐますから」と答えたという記事が掲載されている(平山昇『鉄道が変えた社寺参詣』交通新聞社より引用)。
また『東京日日新聞』の記事で、作家で画家の淡島寒月は、江戸時代には除夜の鐘が盛んだったが、「現在の東京では除夜の鐘をついて生々しい人間生活の無常を知らしめそこに反省をうながす寺院が稀になつた」と述べている(同引用)。
さらに太平洋戦争が始まると、「金属類回収令」によって、多くの梵鐘が供出される。鐘をつきたくても、鐘そのものがなくなってしまったのである。
では、今のような形で除夜の鐘がつかれるようになったのは、いつごろからなのだろうか?
除夜の鐘といえば、NHK「紅白歌合戦」が終わったあとに放送される「ゆく年くる年」だ。番組冒頭から各地の除夜の鐘の音が流され、年越しの様子を映し出す。
この番組の開始は1955年だが、前身はラジオ放送が始まって2年後の1927年にスタートした「除夜の鐘」である。
もちろんテレビではなくラジオ放送で、しかもスタジオ内に置いた「磬子」を打つというものだったらしい。やがて29年には一か所だけの実況中継となり、各地からのリレー中継となったのは32年だ。
これが契機となり、各地で除夜の鐘がつかれるようになった。つまり、除夜の鐘の風習は昭和に入ってから全国的になり、戦中の混乱期を経て現在に至る。そのため、現在の苦情問題について、柔軟な対応を求める声も無きにしも非ずなのだ。

「日本人が大切にしてきた伝統のウソ」(河出書房新社)より
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