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明治憲法に信仰の自由はうたわれていたが

 現在、多くの人は近くの神社の「氏子」になっている。他宗教の信者もしくは無宗教の人でも、家が「氏地」にあれば、その家の住人は氏子とみなされる。同じように、かつてほとんどの家はどこかの寺の「檀家」でもあった。仏教の信仰施設である寺は所属する宗派に分けられているので、檀家も宗派で区別され、仏式の葬儀や法要は、その家々の宗派の方法で執り行われる。
 この氏子と檀家には実は深い因縁があり、氏子制度が確立したのも、やはり明治時代に入ってからだ。
 江戸時代、幕府はキリスト教を禁制とする「禁教令」を発布。キリシタンを摘発するため、民衆の信仰する宗教を調査する「宗門改」を行った。この宗門改を担当したのが寺院である。
 キリシタンでないことを証明するため、庶民は寺から「寺請証文」を受ける。証文を受けるには、いずれかの寺を菩提寺とし、檀家になる必要がある。菩提寺は家族単位で檀家世帯の宗旨、名前、住所などを記録。記録簿を「宗門人別改帳」といいい、これは現在でいう戸籍に相当する。
 これによって「檀家制度」が確立。一連の制度を「寺請制度」という。つまり、原則として日本国民はすべて仏教徒となった。やがて寺請制度はキリシタンでないことを証明する当初の目的が薄れ、寺による民衆の管理を主としていくのだ。
 もちろん神道は禁止されなかったので、これまで通り神社への参拝は自由。江戸時代までは神仏習合が当たり前だったこともあり、現在のような氏神や氏子の制度は存在しなかったのである。
 とはいえ、氏神・氏子という概念が全くなかったわけではない。公家のトップである藤原氏は春日大社を氏神とし、一族は氏子という意識を持っていた。藤原氏以外でも氏神を祀る神社は設けられたので、一族は氏神社の氏子ということになる。では、そもそも氏神・氏子とは何なのか?
 神社の神様は大きく「氏神」「産土神」「鎮守神」に分類される。氏神は、その土地に住む一族を守る神である。古代の日本では血縁者同士が集落内で一族を作り、地域の土地神を祖先神として崇拝していた。こうした血縁者の一族を「氏族」と呼び、一族の構成者である氏人・氏子が崇拝することからその神々は氏神と呼ばれるようになった。すなわち、氏神とは同じ土地に住む血縁者の守り神なのである。
 産土神は、その人が誕生したとき最も縁の深い場所、つまりは誕生した家や誕生時の地域にいる守護神のことをいう。引越しなどで別の場所に移住しても、産土神は生涯を通じて守ってくれる。そして鎮守神は土地そのものを守る神を指す。
 このように、氏神・産土神・鎮守神は別々の神格を持っていた。だが江戸時代になると、交通手段の発達や城下町などの都市化、もしくは大名の国替などにより人々の移動が盛んになる。すると、集落からの流出や、外から流入する人が増加。人々の移動は血族の関係性を弱め、土地に定着した流入者の子孫が別の一族の氏神を土地の神として敬うことが珍しくなくなった。
 したがって、厳密な意味では、同じ地域の人々がみんな同じ氏神の氏子にはならない。エリアを守ってくれる神ならば、本来は鎮守神ということになる。また檀家になるのは幕府の政策だったが、地域で同じ神様を祀らなければならいという制度はない。そのため、神社はあっても参拝しない、もしくは独自に神社を建てるということも珍しくなかった。
「伊勢屋、稲荷にイヌのクソ」というのは、江戸の町に多かったものを比喩する言葉だが、それほど稲荷社が多かったのは、商売繁盛などを願った商家や、国替えを避けようと「稲荷=居成」の語呂合わせで大名家が建立した神社が多かったからだ。
 このように、江戸時代はまだ仏教と神道の区別があいまいで、幕府の政策もともなって基本的には仏教が優位な立場にあった。それが覆るのは、明治時代に入ってからだ。
 明治新政府は当初、寺請制度を継承し、キリスト教も禁止していた。だが、江戸時代末期に盛んとなった「復古神道」の影響や、幕府の出先機関ということで汚職などの腐敗が著しかった寺院への反発もあって、寺請制度は廃止される。復古神道とは、日本を最も優れた国とする「日本本源論」、天皇を至高の存在と位置づける「皇国尊厳論」を主軸とし、仏教伝来以前の精神に帰ることを目的とした神道の形をいう。
 寺請制度を廃止した政府は、明治4(1871)年、「大小神社氏子取調」という布告を発布。「氏子調」という政策を実施する。これは国民すべてを在郷の神社の氏子とするものだ。内容はキリシタンでないことの証明に加え、氏子の氏名や世帯の人数などを記録する戸籍や、身分証明など。すなわち、寺請制度とほとんど同じであり、氏子調は担当が神社から寺に変わっただけである。
 しかし、氏子調はわずか2年で廃止。その背景には、欧米諸国や遺留外国人の反発が大きかったからだ。明治22(1889)年に公布された「大日本帝国憲法」にも信仰の自由は謳われた。
 しかし、この氏子調の影響が、現在の氏子制度につながっていく。さらに、氏子調は神道を国の宗教とするのにも役立っているのだ。
 これらに先立つ文久3(1863)年、のちに初代総理大臣となる伊藤博文はイギリスへの留学中、あることに気づく。それは、欧米諸国が国内に様々な対立を抱えながらも1つにまとまり強国になり得たのは、国民がキリスト教という共通の価値観を持っているためというものだ。そこでキリスト教を神道に置き換え、国民の忠誠心や団結心を養い帝国主義の体制を固めるのが肝要だと考える。
 この伊藤の考え、そして復古神道や日本の古典研究から始まった国学の影響もあり明治元(1868)年、政府は「神仏分離令」を発布。その目的はもちろん、皇室祭祀を中心とした「祭政一致」であり、神道の国教化だ。
 神仏分離令により、権現や明神など仏教由来の神号は禁止。加えて、神社内の仏像・仏具は撤去が決まった。長く神社を管理してきた社僧・別当も還俗させられ、神仏混淆の習慣は公的に廃止されることになる。
 ただ、神仏分離令は必ずしも仏教撲滅を狙った政策ではなかった。しかし、国学の普及で幕末前から小規模な廃仏運動が諸藩で起きており、廃仏の機運はすでに高まりつつあった。また、民衆の間でも幕府の保護政策と葬礼の利益で堕落した一部の僧侶への不満が溜まっていた。そこに発せられたのが神仏分離令であり、その結果起こったのが、仏教への猛烈な排斥運動「廃仏毀釈」である。
 廃仏毀釈によって多くの寺院が破壊され、僧侶も神官になるか還俗するかを強制される。仏像や仏具は廃棄され、現在国宝に指定されている興福寺の五重塔も25円(現在の価値で約10万円、250円説もあり)で売りに出されようとした。
 明治5(1872)年、政府は宗教行政を管轄する「教部省」(後の内務省社寺局)を設置。その下に、国民の教化を担う「教導職制度」が設けられる。この制度により神職をはじめ民間宗教の布教者、さらには俳優や落語家など、およそ人にものを説く能力を持つ職種の人間が採用され、国家神道の宣教活動が行われることになる。
 明治政府は神社を「国家の宗祀」、つまり国が祀るべき公的施設と規定。これにより、主だった神社の神職は内務大臣や地方長官の指揮監督を受けることになり、神社に対する国家支配が始まった。つまり、神社は地域住民の信仰の拠り所から、国家の意志を民衆に伝える場に変化したのである。
 これらのことからわかるのは、一般人の氏子制度は檀家制度から移行したに過ぎない。同じ氏子でも菩提寺が異なるように、檀家制度は地域よりも家、氏子制度は家よりも地域という違いがあるくらいだ。ただ、菩提寺と氏神社を決めておけば、法事や神事を依頼する先を探す必要はない。現在まで両方の制度が残されているのは、生活の利便性を考慮されてのことだろう。

「日本人が大切にしてきた伝統のウソ」(河出書房新社)より
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