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女性による育児のウソ

子育てが母親の役目になったのは明治時代以降から昭和初期にかけて

 人類が地球上に誕生して約700万年。その間、女性にできて、どうしても男性にはできないことがある。「妊娠と出産」だ。2012年には、オーストラリアで腹部に人工子宮を埋め込んだ男性の妊娠に成功したと報じられたが、受精卵は作り出せないので本当の意味での懐妊とはいえない。
 赤ん坊を産むため、育児も女性の役目だととらえられている。ただ、過重な負担によって、凄惨な事件が起きているのも事実だ。行政は男性も育児休暇を取得するよう勧めてはいるが、効果が上がっているとはいいがたい。
 しかし、「女性の育児は今に始まったことにない」「最近の女性は弱くなっている」と決め込む人もいる。さらに、「昔の方がもっと大変だった」という育児経験者も少なくはない。では、かつて育児は、本当に母親だけが担っていたのだろうか。
 母親以外で育児を担当する人といえば「乳母」が思いつく。乳母には、母乳の出が悪い母親に代わって自分の乳を飲ませる人、という印象がある。しかし、乳母は何も授乳するだけが仕事ではない。
 乳母の歴史は古く、『日本書紀』に「彦火火出見尊が婦人を集め、乳母、湯母、飯かみ、湯人を決め、養育し、これが世の中で乳母を決め、子を育てることの始まりである」とある。これはあくまでも伝承に過ぎないが、飛鳥時代に多くの子どもを産んだ家には、朝廷から乳母を支給されていたという記録も残されている。
 この場合の乳母は、文字通り「母乳を与える人」だが、平安時代になると子どもの教育係も担当するようになる。『源氏物語』の主人公、光源氏の乳母は「大弐乳母」と呼ばれ、17歳の源氏は病気になった大弐乳母を見舞った際、隣に住んでいた夕顔を知るきっかけになったと記されている。
 元服(成人)を済ませたであろう源氏が、わざわざ乳母の見舞いに出かけていることから、乳児の時だけでなく長く付き添っていたことがわかる。つまり、母乳で育てる時期が過ぎても、乳母は教育係として雇い主の子どもに寄り添っていたのだ。
 男子の乳母は、子どもが元服すると役目を終える。だが、女子の乳母は一生涯連れ添っていた。また、乳母は一人ではなく、数人が担当したこともわかっている。源氏には大弐乳母のほかに、左右衛門の乳母という人物がいた。
 さらに、乳母の実子は「乳母子」「乳兄弟」と呼ばれ、雇い主の子どもと特別な関係を結ぶことも多かった。大弐乳母の実子は藤原惟光という架空の人物だが、源氏の恋愛に多く貢献し、のちに朝廷の高官である参議まで上り詰めている。また平安時代から鎌倉時代には夫婦が養育係をすることもあり、平安時代末期の武将、清原家衡の乳母は「千任」という男性である。
 その後、教育係としての乳母の存在は広まり、江戸時代には上級階級だけでなく、下級武士や商人、豪農の間でも乳母は雇用される。庶民の間でも、母親に母乳が出ないときや足りないときは近所の女性が代わりに与えたりするなど、何かと助け合って子どもを育てていた。
 子どもの教育という点で特筆すべきは、江戸時代の男性の役割だ。江戸時代は「父親が子供を育てた時代」という専門家もいて、男性向けの育児論が多く出された時代でもある。授乳などの直接的な役目は女性が担ったが、男性は教育などの面において大きな役割を果たしていたのだ。
 例えば、江戸時代中期の朱子学者で政治家だった新井白石は、4、5歳のころから父親と一緒に『太平記』の講釈を聞くなどの幼児教育を受けていた。また、江戸時代後期の思想家、林子平が記した育児書『父兄訓』では、育児の監督責任は父親にあるとしている。中には、番屋という見張り用の詰め所に父親が子どもを連れて泊まったとの記録もあり、父親に連れていかれた仕事場で働く姿を誇らしく思ったという子どもの日記もある。
 そのほか、花見や祭り、神社への参詣などに子どもを連れて行くのも父親の役目。家父長制度により優秀な跡取りを育てなければならない意味や、女性に教育を任せられないという意識もあっただろうが、男女による育児の分担がなされていたことは確かだ。
 これらの例は武士や町人においてだが、農村でもさほど変わりはない。それどころか、農村部における子どもは、早くから共同体の一員として地域ぐるみで育てられていた。
 田植えや稲刈りという繁忙期に入ると、男女の区別なく作業を行わなければならない。そんなときは、リタイヤした高齢者が子どもの面倒を見る。物心がつけば、父親は自分のそばにおいて作業の様子を見せる。思春期に入ると「若衆宿」という小屋で、集団生活を送ることもあった。農耕作業は地域の連帯が必要なため、子どもは個人のものではなく、地域のものという考え方もあったのだ。
 明治時代に入ると、一般の乳母制度はなくなり、良妻賢母の教えのもと育児と教育は母親に押し付けられる。農村部では、まだ地域での育児意識は残されていたが、大正時代から昭和初期にかけて薄れていった。
 出産が女性の役割であることは紛れもない。かといって、生まれた子どもの面倒まで、母親がすべてこなすようになったのは、近代化が進んで妻や母への概念が変わってからのことだ。時代によって育児方法が変わるのであれば、現在に即した方法で母親の負担を少なくするのが賢明であることは言うまでもない。

「日本人が大切にしてきた伝統のウソ」(河出書房新社)より
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