武器を使わない情報戦ープロパガンダ⑩

ナチスの宣伝大臣ゲッペレスの栄光と挫折

足に障害をかかえつつも優秀な成績

 1933年から1945年までのドイツを支配したナチス党(国民社会主義ドイツ労働者党)は、全体主義と優勢思想を是とするナチズムの浸透で国内支配を固めようとした。その結果として、政権の安定化とアドルフ・ヒトラーの神格化が確立されたのだが、それらはけっしてヒトラーだけの所業ではない。国内外のプロパガンダを統括し、ナチズム浸透を主導した人物の名はパウル・ヨーゼフ・ゲッベルス。ナチス政権下の宣伝大臣である。
 ゲッペルスは1897年10月29日にラインラント郊外の町ライトで生まれた。カトリック教徒を両親に持つ5人兄弟の三男坊で、幼少期にかかった病気で生涯片足が不自由だった。足の障害で性格も内向的となり、高校時代にはダンスに興じる同年代達を陰からにらみつけたこともあったようだ。第一次大戦が勃発すると軍に志願してもいたが、やはり体力面で不合格となった。
 その一方で成績は優秀で、1921年にはハイデルベルクで国文学博士号を取得している。「G博士」と自称しだしたゲッペルスは作家を目指し、小説の執筆と新聞への寄稿をつづけるようになる。

ドイツ第三帝国の宣伝戦略を主導

 そんなゲッペルスは、1924年に友人の誘いで国民社会主義自由運動の集会に参加したのをきっかけとして、政治活動にのめり込む。ほかのドイツ人と同様に反ユダヤ主義に目ざめていた彼は、1925年のヒトラー出獄と同時期にナチス党に参加。その年の11月にヒトラーと面会したことで、ゲッペルスは熱烈なナチズム信奉者となっていった。
 1926年にはベルリン大管区指導者に任命されて大衆宣伝のノウハウを学び、ナチス党の選挙戦を宣伝の面からサポート。そして1933年にナチス党がドイツ議会で第一党となると、ゲッペルスは宣伝大臣に就任し、ドイツ第三帝国の宣伝戦略を主導することになった。
 ゲッペルスは大臣就任時、国民に啓蒙宣伝の実施を宣言している。つまりはヒトラー政権の主義主張を国民に浸透させて、国家運営を盤石にするということだ。その中核となったのが宣伝省だ。
 正式名称は「帝国国民啓蒙宣伝省」といい、国内外へのナチズム宣伝のため1933年3月に設立された。トップは当然ゲッペルスだ。ベルリンのレオポルド宮殿を本省としつつ、全55ヶ所に職員を置いた大官庁である。

対日感情の緩和を意図した合作映画

 宣伝省の職員数は最盛期で約1万5000人となり、管理局、音楽局、放送局、国内・海外新聞局といった全16局の部署であらゆる文化権益を管理。さらに「帝国文化院」という下部組織を置くことで、国民の文化活動管理をより強固なものにしようとした。いわば、ヒトラー時代のドイツはあらゆる文化活動をゲッペルスに監視されていたということになる。
 こうして国内宣伝のトップに立ったゲッペルスは、ヒトラーの支援の下で思想工作に従事するようになる。1933年5月2日に労働組合解散命令がヒトラーより下ると、ゲッペルスは10日に共産主義や自由主義関連の書物の焚書を実行させた。1936年のベルリンオリンピックの政治利用もヒトラーとゲッペルスの合作案で、ドイツ賛美の祝典として演出されている。
 さらに、ゲッペルスは映画戦略も手掛け、日独合作映画「サムライの娘」の撮影も支援。当時は日独防共協定の締結で両国が接近していた時期だったが、ドイツ人の対日感情はあまりかんばしくなかった。そこでゲッペルスは、「侍」のイメージを利用して対日感情の緩和を図ろうとしたのだ。
 奇しくもこのときは、川喜多長政とアルノルト・ファンクの合作映画製作が持ち上がっていた。ゲッペルスは映画製作を支援すると同時に、宣伝省による報道も大々的に実行した。そのかいあって映画はドイツ内で大ヒットを飛ばし、対日感情もやわらいだのである。

ヒトラーのあとを追って自害

 このほかにも、ユダヤ系を中心とする「退廃芸術」の弾圧、共産主義系新聞の禁止といった統制活動を行なってきたが、第二次世界大戦が勃発すると戦場宣伝は国防軍や武装SS、国外宣伝はリッペントロップ外相、国内はディートリヒ新聞部長が主導することになり、ゲッペルスの権力は低下しつつあった。
戦時中の役目は広報官代わりとしてラジオでプロパガンダ演説を行うことだったが、ドイツ軍の劣勢でヒトラーとともに地下壕に避難することになる。
 1945年5月1日、前日にヒトラーの自殺と遺体の処分を見届けたゲッペルスは、家族とともにみずからの生涯に終止符を打つ。享年47。
ナチスをプロパガンダで支えた大臣は、ナチスの終焉と同じくして命を終えたのだった。

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