崇峻天皇暗殺事件

 30代敏達天皇は廃仏派であったとされ、そのために物部氏が勢いを増していた。だが、先帝の弟である31代用明天皇は崇仏派で、母親も皇后も蘇我の人間だ。蘇我と物部の立場は逆転する。そもそも、用明天皇は馬子に推された天皇であり、その陰には虎視眈々と皇位を狙う皇子がいた。穴穂部皇子である。
 欽明天皇の皇子で用明天皇の異母弟である穴穂部皇子は、敏達天皇の後継をもくろんでいた。しかし、馬子によって用明天皇が擁立されると皇子は守屋と結託し、次の皇位を望んだのである。
 その思惑が通じてか、用明天皇は在位わずか2年で崩御。守屋は穴穂部皇子を皇位に就かせようとする。これに対し、馬子は炊屋姫、のちの推古天皇を奉じて皇子の誅殺を図る。なぜなら、用明天皇の在位中、穴穂部皇子は炊屋姫に乱暴を働こうとしたことがあったからだ。
 このとき、敏達天皇の重臣であった三輪逆が皇子を姫に近づけず、炊屋姫は難を逃れた。だが穴穂部皇子は、「群臣の身分であるにもかかわらず皇子である自分に逆らうとは不遜である」とし、逆を亡き者にしようとする。その意向を受けた守屋は、逆を殺害してしまう。
 このような出来事もあって、炊屋姫は皇子の殺害を許可。馬子は穴穂部皇子のみならず、親交の深かった宅部皇子も誅殺したのだ。
 その後、丁未の乱で守屋も殺されると、もはや馬子にたてつくものはなくなる。そして馬子は、欽明天皇の第12皇子である泊瀬部皇子を立てる。32代崇峻天皇である。
 後ろ盾もあって、即位当初こそ崇峻天皇は馬子と良好な関係にあった。だが、政治の実権を握る馬子の存在が、やがて疎ましくなり始める。天皇はまるで馬子の傀儡のような自分の立場に、嫌気が差し始めたのかもしれない。 
 そんな折、宮中に首の落とされたイノシシが献上された。それを見た崇峻天皇は「このイノシシのように誰かの首も落せたら良いのに」と口走ってしまう。その言葉は、後宮に入っていた馬子の娘、河上娘から伝わり、これを耳にした馬子は崇峻天皇の排斥を決意。臣下であった東漢駒を使って暗殺してしまった。
 こうなると、もはや馬子の権威は天皇を上回ったといっても過言ではない。皇位継承は馬子の思うままとなり、後継者の決定権も馬子が完全に掌握する。崇峻天皇の後継者として最有力候補は彦人皇子だが、皇子は病弱だったとも言われ、加えて蘇我との姻戚関係はない。結果、天皇に選ばれたのが炊屋姫、33代推古天皇だったのである。

暗殺の真相は政治派閥によるクーデター?



  ただ、崇峻天皇の暗殺に関しては、馬子の一存だけではなかったとの説もある。
 そもそも崇峻天皇は天皇に即位できる資質はもっていなかった。父親こそ欽明天皇だが、母親は馬子の妹。当時の基準にすれば、皇族以外の母を持つ血統は、さほど優れたものとはいえない。その点については、やはり馬子の妹を母とする用明天皇も同じだが、用明天皇の皇后は欽明天皇の皇女である穴穂部間人皇女だ。
 皇后は奈良時代、聖武天皇の皇后である光明皇后まで皇族以外では立てられていない。なぜなら、皇后は天皇の単なる配偶者ではなく、もっとも身近なサポート役として権力を保有していたし、場合によっては自ら皇位につくこともある。これを「ヒコ・ヒメ制」といい、ヤマト王権が成立する以前から日本の各地でみられた制度である。つまり、用明天皇は穴穂部間人皇后の存在があったからこそ即位ができたといえる。
 一方の崇峻天皇は后妃こそ持っていたが皇后を立てていない。崇峻天皇を推古天皇の息子・竹田皇子が成人するまでの中継ぎだったとする説もある。だが、竹田皇子は蘇我・物部の対立戦である「丁未の乱」以後、『日本書紀』に記事が見られないことから、早くに没したと考えられている。
 竹田皇子の早逝により崇峻天皇は「中継ぎ」の立場から脱却。天皇としての意識を高めていく。これに反発をおぼえたのが別の朝廷勢力。それが蘇我馬子、厩戸皇子(聖徳太子)、そして炊屋姫こと、のちの推古天皇である。
 崇峻天皇時代には、厩戸皇子を中心とする斑鳩派、馬子と炊屋姫を中心とする飛鳥派、そして崇峻天皇が皇宮を置いた桜井派という政治派閥があったとの考えもある。斑鳩は現在の奈良県斑鳩町、飛鳥は明日香村、桜井は桜井市。この3地域は距離が離れており、権力者が一地域に集うことなく距離を開けているということは、それだけ対抗意識があったともいえる。この3派のうち、斑鳩派と飛鳥派が結託。桜井派打倒に動いたというわけだ。
 崇峻天皇が即位した翌年、隋が中国を統一し、朝鮮半島の高句麗と新羅は攻撃に備え、日本も北九州に2万余りの大軍を派遣。さらに物部氏が滅んだ後も反蘇我の動きは収まっていない。この内憂外患状態に対し、崇峻天皇はニューリーダーとして改革を進めたが、それがかえって反発を招いてしまったという説もある。
 さらに大胆な意見としては、崇峻天皇は即位していないというものがある。崇峻天皇の和風諡号が泊瀬部天皇と本名と同じ、崩御後には「殯」が行われず死亡した当日に葬られた、陵墓を管理する陵戸が置かれなかったことなどを根拠とする。これにしたがえば、用明天皇の死後、空位が続き泊瀬部皇子が政権を担おうとしたが既存の実力者たちに疎んじられて挫折した、というのが暗殺事件の真相だろう。

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