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家で凝った料理をするようになったのは、ごく最近

 少し前、あるツイッターへの投稿が話題になった。「ポテトサラダ事件」と「冷凍ギウョザ事件」だ。「事件」と呼ぶほど大げさなものでもないが、その内容は次の通り。
 ある子ども連れの主婦が総菜のポテトサラダを買おうとしたとき、高齢の男性が「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」と言い捨てたとか。投稿主はいわれた主婦ではないが、その声を耳にして女性の前でポテトサラダを2パック購入したという。これがポテトサラダ事件。
 冷凍ギョウザ事件の方は、その日疲れていた主婦が、夕食のおかずを冷凍ギョウザにしたところ、子どもが「ママ、ギョウザおいしい」とよろこんでいるにもかかわらず、夫がすかさず「手抜きだよ。これは冷凍っていうの」と返したという。
 想像するに、高齢の男性も夫も、たぶん自分では料理をしないのだろう。だからこそ簡単にこんなことがいえる。ポテトサラダは蒸かしたジャガイモをつぶしてマヨネーズであえるだけ。ギョーザはタネを皮で包んで焼くだけ。そんな風に考えているのであれば、大いに反省していただきたい。
 そもそも家庭で凝った料理が作られるようになったのは、あまり古い時代の話ではない。大名や公家といった上流階級では専門の料理人を雇っていたし、商家や豪農家でも下働きの人間が食事をつくった。したがって家庭料理という意識はない。
 では庶民はどうだったかというと、基本的に副食は一汁一菜。汁物と漬物かお浸し程度のおかずしかなかった。その代わり、コメなどの穀物は大量に食べられ一人1日5合と見積もられる。この量を白米でグラムに換算すると約750グラム、炊くと約1800グラムにもなる。家族全員ではなく、あくまでも一人分の分量だ。これは庶民だけでなく、一般的な武士も同じだったようだ。
 また、庶民の住居には調理をするスペースが乏しい。江戸時代の長屋を例にとると、居住スペースは約六畳。ここに小さな流しと水桶、簡単なかまどが設けられている程度だ。水は井戸からくむか水売りから買う。米を炊いたり野菜を煮たりするのは、炭か薪を燃やした火。「とろ火で煮込む」など、至難の技である。
 したがって、湯を沸かして野菜や豆を煮たて、それをおかずにするしかない。冷蔵庫がないので作ったものを余らせるわけにもいかない。調味料も貴重品なので、味は薄口。たまのぜいたくは、売り子や料理屋から総菜を購入していたのだ。
 だが、ある程度の流通が整っていた都市部と異なり、農村ともなれば食材の入手すら困難だった。農民は基本的に自給自足で、自分で作ったものしか口にできない。山間部で海の魚を食べるなど夢のまた夢。一汁一菜の基本は同じだが、季節によっては、それさえもできないことがある。とても料理とよべる代物ではない。
 このように、調理が自宅でも可能になったのは、都市部では明治時代、農村部では大正時代から戦前だと考えられている。もちろん、家庭料理がどの家でも作られるようになったのは、ガス、水道の普及が広まってからだ。
 とはいえ、家族の食事作りは女性の役目だった。ただ、女性が料理を担当したのは、「夫は外、妻は家」という概念からではない。
 料理は家族の命を左右する大切な作業だ。かまどに神が宿っているという考え方も、それに由来する。さらに日本の土着信仰はあらゆるものに神が宿るとするアニミズムで、穀物や野菜を食べるという行為は宿った神のエネルギーを取り込む行為でもある。消化吸収や栄養素といった知識のない人々にとっては、食事で幸福感を得たり、力が湧いたりするのを不思議に思っても仕方がない。
 このようなことから、食事は神事に等しい行為だった。そして、往古から神に近いのは男性より女性とされた。すなわち、食事という日々の神事を女性が担ったわけだ。それがいつの間にか、女性の料理が当たり前とみなされてしまうようになる。
 もはや食事が神事でないのであれば、男性も積極的に料理を行うべきだ。それともいまだに神事だととらえるのであれば、作ってくれる女性を神様同様に敬う必要がある。ポテトサラダや冷凍ギョウザの件は言語道断だし、「今日、何食べたい?」と聞かれて「なんでもいい」と答えるのも感謝の気持ちがない。
 ここで、もう一つ食事に関する習慣で、意外に新しいものを取り上げてみたい。それは食事のときの「いただきます」。
 いただくのは、「食料になってしまった生物の命」とか、「作ってくれた人への感謝」など諸説あるが、本当のところは不明。しかも、食事前に手を合わせてこの言葉を口にするのは、昭和になってからだとの意見がある。
 根拠になるのは昭和17(1942)年に民俗学者の柳田國男が「最近はやたらにイタダクという言葉が乱用されているが、これはラジオの料理番組のせいであろう」という文章による。礼儀作法にも、伝統に培われていないものは存在するのだ。

「日本人が大切にしてきた伝統のウソ」(河出書房新社)より
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