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チェリスト河野文昭*教育、室内楽、その原点を語る。

割引あり

チェリストの河野文昭が今年3月、教授を務める東京藝術大学を退任する。
同月20日(水)に行われる退任記念演奏会は、上村昇、藤森亮一との「チェロアンサンブルの愉しみ」に始まり、玉井菜採、永峰高志(Vn)、佐々木亮、大野かおる(Va) との「クィンテット WAM・キョウト」。漆原朝子(Vn)、河野美砂子(Pf)との「バースデートリオ」。松原勝也、小林美恵(Vn)、川本嘉子(Va)との「AOI・レジデンス・クヮルテット」と、室内楽のスペシャリストが名を連ねる。室内楽に邁進してきた河野の音楽人生を凝縮したかのようだ。
バースデートリオを除いては、主な活動拠点が関東圏外。それを1つのコンサートで聴けてしまうというというのだから、ファンにとってはこの上なくうれしいコンサートでもある。



©Ayane Shindo


※このコンサートの申込みは既に締め切られています
河野文昭 退任記念演奏会 2024年3月20日(水)15:00 東京藝術大学奏楽堂

退任記念演奏会

河野 私はチェリストとして、これまで室内楽に力を入れてきました。そうした活動は学生の頃からやっていましたが、東京藝大で指導にあたった32年間を振り返るとやはり「室内楽と共にあった」と思うのです。
 いくつもの室内楽団を主宰したり、所属したりしていますが、その内の4つのグループのメンバーにお願いしたところ、皆さん快く引き受けてくださり、このプログラムが実現することになりました。

河野が藝大で指導にあたることになったきっかけは、前任者、堀江泰氏の急逝だったという。非常勤講師として迎え入れられ、その1年後の1992年に河野は助教授に着任。2007年に教授となり、現在に至る。

河野 当時はいろんな経験を積まれた40歳前後の方が着任するケースが多かったようです。しかも、堀江先生という偉大なチェリストの後任。着任当初、私は35歳で、藝大の卒業生でもありませんでしたから、当時としては異例の抜擢だったのではないかと思います。しかし、外部から来たからこそ、藝大チェロ科の現状を客観的に見て、学生たちのためにどんなことをやっていったら良いのかをまた別の視点から見極めることができたと思っています。
チェロ科の常勤としては、もうひとかた、大先輩の三木敬之先生がいらして、先生が退官された後に山崎伸子先生、その後中木健二先生が着任されました。
初期の頃からこれまで、たくさんの優秀な学生さんに恵まれました。

クラシック音楽の奏者のみならず、多ジャンルの音楽を取り上げマルチに活躍するチェリストなど、様々なタイプのチェリストがたちが河野のもとから巣立っている。

河野 藝大には全国から優秀な学生さんが集まってきますから手取り足取りゼロから育て上げる、というのではなく、各々が持っている良いところをどのように伸ばしていくか、というのが大事なんですね。それがその後の彼らの音楽人生に直結します。だからこそ、責任も重いのです。

テニスからチェロへの転向

そもそも何故チェロを選んだのかと河野に訊ねると、始めたのは高校の部活だったという。それまで音楽の専門教育は受けていなかったというから驚きだ。

河野 家では父がレコードでクラシック音楽を聴いていましたから、音楽は子どもの頃から日常的に自然と耳に入ってくる環境にいました。最初は聞こえてくる音楽よりもレコードプレーヤーに興味を持って、ぐるぐる回るところに針を下ろす、その仕組みが面白くて父の傍らでよく眺めていましたね。

趣味でギターを弾いていたこともあったそうだが、楽器を習った経験はなく、オーケストラを生で聴いたのも、中学生の時の音楽鑑賞教室だったという。

河野 父の転勤で中学時代は北海道で過ごしました。そのときに音楽鑑賞教室で札幌交響楽団の演奏を聴いたんです。それが初めての生でのオーケストラ体験だったわけですが、ベートーヴェンの《運命》の出だしを聴いて全身に電気が走るような感動を覚えました。
けれどもそこから音楽や楽器へと関心が高まっていったということもなく、当時はテニスに熱中していたんです。
高校は神戸の学校に進学したのですが、そこでも迷うことなくテニスを続けるつもりでしたから、合格発表の後、入学式を待たずにテニス部の練習に合流していました。
しかし、中学と高校とではレベルが違うでしょう。それに、新入部員はボール拾いや、坂道ダッシュばかりの日々。疲れてしまって勉強は手に付かなくなるし、だんだんと不安と不満が募っていったんですね。そんなあるとき、いつものように坂道ダッシュをしていたら、オーケストラ部の練習が聞こえてきて、彼らがあれだけ弾けるのだから私にだって弾けるのではないだろうかと、ふと思ったんです。それで門を叩いたのがきっかけとなりました。

チェリストへの道へと誘った
偶然の出逢い

河野 オーケストラ部が練習する教室に行ってみると、偶然にも中学校で同じくテニスをやっていた先輩がチェロを弾いていたんです。とても歓迎してくれて、体格的にもチェロが合っているだろうと薦めてくださったんですね。巡り合わせですね。
この時、もし仮にヴァイオリンを薦められていたら、その後、音楽の道に進む可能性は非常に低かったと思います。ヴァイオリンはもっと早く習い始めなければプロの奏者になることは難しいですから。

チェロの魅力にすっかりはまったことと、元来の負けず嫌いの性格が相成って、上達が早かった河野。その後、再び訪れた偶然の巡り合わせにより京都市立芸術大学へ進むことになる。

河野 そのオーケストラ部では毎年夏に室内楽のコンサートを行っていました。高校3年生の夏、そのコンサートに京芸に進学した先輩が聴きに来てくれたんです。その際に私の演奏を聴き“そのくらい弾けたら京芸に入れるよ”と言ってくれたんですね。私はおだてられると木に登るタイプですからその気になって(笑)、両親に音大に進学したいと相談しました。でも内心、さすがに父には反対されるかと思っていたのですが、“やりたかったらやれ”と言ってくれたんですね。

高校3年生の夏から始めた進学準備と
京芸での幸運な出逢い

河野 チェロが好きで弾きまくっていましたが、まさか音大に進学することなど考えてもいませんでしたから、副科ピアノもソルフェージュも3年生の夏頃から始めたのですが、ソルフェージュに関しては、部活の練習の中で実践的に身に付いていたことも多かったように思います。
しかし準備期間があまりにも短かったので、さすがに合格するのは無理かと思っていたのですが何とか無事に合格することが出来ました。そして、そこで黒沼俊夫先生に師事することができたのは、私にとっては幸運でした。
黒沼先生は非常に苦労してチェロを学ばれた方でした。お父様が厳格な教育者で、当時の風潮も影響して、男が音楽をやるなどとんでもない、という家庭環境で音楽を学び、東京藝大に進学。藝大受験の日には、ご両親に一橋大学を受けに行くと言って出かけられたと聞いています。
その後、戦時下に藝大卒業。そのタイミングで兵として召集され、終戦後も捕虜としてシベリアで強制労働。その間チェロを弾くことなどできませんから、結局8年のブランクがあったそうです。
黒沼先生は、戦地に向かう前に藝大に自身のチェロを預けていったそうなのですが、混乱の中、楽器が残っているはずもないと半ば諦めており、音楽とは全く別の職に就くことを考えていたそうなのですが、奇跡的に楽器が残っていたんですね。それで再びチェロを弾き始め、東京フィルの首席になったという方でした。そういった経験をされてきた方でしたから、私のようにかなり遅くなってからチェロを習い始めた学生への指導の仕方もよくわかっていらしたのだと思います。
それから、黒沼門下の4つ上には上村昇さんがいらして、彼はお父様がチェリストだったこともあり、早くからチェロを習っていました。しかし練習が嫌になってしまわれて、チェロを離れていた時期があるんです。
 その後、高校生になってから再び弾き始め京芸に進学。子どもの頃に習っていた時期があったとはいえ、晩学にも関わらずコンクールで数々の賞をとっており、私は上村さんを目標にしていました。そいう先輩が身近にいらしたというのも幸運でした。

コンサートの第1部にある「チェロアンサンブルの愉しみ」はその頃に結成され40年もの長きにわたって活動を継続している。

河野 大学を卒業した年に巌本真理さんが他界されて、巌本真理弦楽四重奏団のメンバーだった黒沼先生はすっかり落ち込んで塞ぎ込んでしまわれたんです。“もうチェロは二度と弾かない”と。
しかしそういうわけにもいかないだろう、と、何とか再びチェロを弾く気力を引き戻そうと考えて、上村さんと私とで先生を引っ張り出そうということになったんです。そこで考えたのが黒沼先生を交えてのチェロ・トリオのコンサートでした。
先生に持ちかけたところ、“おまえたちがやるんだったら出てやる”とおっしゃって、作戦は成功したわけです。そのコンサートは2回、3回と続き、その後しばらくして私は留学するのですが、帰国してからも継続しました。
黒沼先生が身体をこわされてチェロを弾かなくなってからはメンバーを入れ替えて、その頃に「チェロアンサンブルの愉しみ」と名付けたのです。現在は上森祥平さん、上村昇さん、林裕さん、藤森亮一さん、そして私の5人で演奏を続けています。

藝大の退任コンサートでは「チェロアンサンブルの愉しみ」の原点となったチェロ・トリオで、ハイドンの《トリオのためのディヴェルティメント》を演奏。
3月29日(金)、30日(土)には、ALTI芸術劇場で「チェロアンサンブルの愉しみ〜トップチェリストによる珠玉のアンサンブル〜」が予定されている。


チェロアンサンブルの愉しみ
写真左より上森祥平、上村昇、河野文昭、林裕、藤森亮一
写真提供:京都府立府民ホール アルティ

教えることで自らも学ぶ

黒沼俊夫といえば巌本真理弦楽四重奏団での活躍が知られており、室内楽のイメージが強いが、京芸では個人レッスンが中心で室内楽指導は多くは行っていなかったという。

河野 時々友達とグループを組んで弦楽四重奏などを弾く際に、見てください、とお願いすればレッスンしてくださったりもしましたが、弦楽四重奏をやることを強く薦められるということもありませんでした。
黒沼先生はシベリアでの強制労働で指を傷めていたこともあって、ご自身の演奏会に弟子たちが来るのを嫌がったんですね。ですから、先生が演奏される弦楽四重奏団のコンサートを聴くこともなかなかできなかったんです。東京で演奏会があるときに京都からこっそりと聴きに行ったこともありました。そういうこともあってか、門下生の中から弦楽四重奏に本格的に取り組むグループもなかなか出てこなかったんですね。
ところがある年、門下生が結成したミューズクァルテットというグループが民音コンクールで優勝したんです。先生は熱心に指導されて、合宿までして教えていましたから、学生のタイプによって指導の仕方も内容も違っていたのだと思います。
今振り返ると、指導にあたる際、“それぞれの良さを引き出す”ということも、黒沼先生から教えていただいたことが影響しているように思います。

京芸卒業後、京都市立堀川高校の音楽科で講師としてチェロの指導にあたった。それも黒沼からの薦めだったそうだ。

河野 大学を卒業した年の4月には堀川高校の音楽科で教えていたのですが、私がチェロを始めたのは高校生からですからキャリアはまだ浅く、生徒たちの方が弾いてきた時間も長く、巧い子ばかりでした。その後、京芸でも指導にあたるようになり、広島のエリザベト音楽大学や大阪音楽大学でも教えていました。
きっかけを作ってくださったのは黒沼先生で、何故そんなに若い頃から指導にあたるように薦めてくださったのか、その理由は特におっしゃいませんでしたが、そこにはやはり意図があったのだと思っています。
弾き方を教えるとき、私はできるだけ言葉で伝えるようにしているのですが、言葉に置き換えるにしても、弾いて示すにしても、頭で理解できていなければ伝えることはできません。そして、学生たちに伝えるために考えたことは、自分自身の演奏にフィードバックされますから、その積み重ねの大切さを先生は私に伝えたかったのだと思っています。

巨匠 アンドレ・ナヴァラのレッスン

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